左馬権の頭入道昇蓮


1246年 (寛元4年 丙午)12月29日 甲寅

左馬権の頭入道昇蓮と上野入道日阿と、下総の国松岡庄田久安両郷の所務を相論す。
條々の内、去る文暦元年貢物所済の事、日阿当給人たるに依って、弁償せしむべきの 由、預所昇蓮訴え申すの間、日阿の拝領は文暦元年十二月十六日なり。全く彼の年貢 物を徴納せざるの上は、弁済し難きの旨、日阿これを陳ぶ。仍って日来その沙汰有り。 今日件の郷の本地頭忠幹に仰せ、弁を致せしむべきの由と。


丹波大山地頭2代昇蓮の名は東寺文書により、地頭3代基定・基員の父親であることは判ってていたが、その俗称及び、鎌倉幕府内での役職等については残念ながら判明していない。

吾妻鏡は寛元4年12月29日に下総国松岡庄田久安両郷の所務につき、昇蓮が本所の預所(あづかりところ・あずかりしょ)として上野入道日阿を被告として裁判に及び、その採決が下ったことを記録している。同書は1186年 (文治2年 丙午)  下総の国豊田庄(松岡庄と号す。按察使家領)を記録している。現在の茨城県水海道市付近である。

この上野入道日阿とは結城朝政の出家の号である。結城氏は下野国都賀郡小山庄の大族小山大掾の子で、元服の際、頼朝自身が烏帽子親となった事でも有名であり、成人後結城群を領した大豪族である。そして鎌倉幕府の最高幕僚でもあった。

その結城氏に対し訴訟を起こすとは、昇蓮も余程の人物であったであろうことが想像される。

その訴訟の内容であるが、本所である荘園領主がどこであったのだろうか。吾妻鏡は その問題となった年貢未納の年、元暦元年は1184年のことであり、なんと62年も前の年貢未納について裁判が行われ、その判決が下ったのであった。

ではその本(元)地頭忠幹とは誰であろうか・・・。1170年頃常陸大掾平忠幹の名を確認できることから、彼のことであろうと推察される。

インターネットの普及によって、ウェブサイトを検索していると、最近思いも掛けなかったところで昇蓮の名前を見出すことができた。

京都市北区雲ケ畑の奥、真弓八幡町126番地に清水寺という名前は素晴らしいが、実際は山奥の小さなお寺がある。そこの本尊である木造阿弥陀如来立像の体内納入品に造立の願文が残されており、そこに昇蓮・善阿弥陀仏の奥書が残されている。
京都市の指定登録文化財となり、京都市指定・登録文化財−美術工芸品−北区のサイトで確認することができる。

歴史の中で昇蓮と名乗るものは外にいても不思議ではないのであるから、これが中澤昇蓮であるとの確証は得られないが、ネットで検索してみても、室町期の大和壱岐入道昇蓮、鎌倉開府前後に法然の弟子である隆寛に依頼を受けて『選択集』を書き移した尊性昇蓮、室町後期、戦国時代の最中に兵庫県箕面で法林寺の開山となった昇蓮峻誉上人しか確認できない。

丹波大山庄の地頭として、また京都六波羅の守護人・奉行人とし雲ケ畑付近に所領をもっていたとしても何ら不思議はない。

時代的にも何の矛盾もなくピッタリしていることからして、大山庄地頭2代、中澤昇蓮のことと推察出来ないこともない。新たな史料が出てこないと何とも言えないが、興味を引く事件である。