譲渡所領事

上野国多胡庄今泉田在家事
丹波国遊楽庄西村地頭職并安信名事
同国大山庄内清徳名等事右所領者、信明相伝当知行無子細地也。
然而今泉村遊楽庄西村安信者、当御代相副安堵御下分、任故入道言信祖高信実限永代譲渡処也。
次大山庄之清徳名者、中澤源内左衛門入道寿正相副譲状譲渡者也。
於御公事己下者、可致其沙汰者也。
仍、為後日譲渡状、如件。
明徳元年 庚午歳 六月五日 左衛門尉信明(花押)

譲渡 所領事

一、上野国多胡庄内今泉田在家事 御判安堵書副也
一、丹波国遊楽庄西村地頭職并安延名事
一、同国大山庄内清徳名等事 大御所相副安堵御判也
一、同国大山庄内一分地頭石積并重久名包光半名等 中澤七郎左衛門入道跡買徳相伝田畠等事
一、武蔵国中澤郷内和田村彦三郎入道在家同田壱町同名等事
一、讃岐国多配郷内うなさかのやしろの事
右、所領者、信明相伝当知行無子細地也。而今泉村遊楽庄西村安延者、当御代相副安堵状御下文、任故入道言信祖高、次大山庄之内清徳名、重久名、包光半名、石積者、武蔵国中澤郷内和田村、讃岐国多配郷内者、中澤七郎左衛門入道同源内さ衛門入道寿正相副状譲状譲渡弾正信実之処也。永代子々孫々可知行者也。
仍、譲渡如件。

   明徳元年 庚午歳八月三日 壱岐守信明(花押)


四郎左衛門尉道忍譲状

譲渡所領事

一、上野国多胡庄今泉田畠在家等事
一、丹波国遊楽庄西村地頭職并安延名等事
一、同国大山庄石積并勢得重久包光名等事
一、同国弥勒寺別院寺村里外田畠山林等事
一、同国三井庄助安名田畠山林等事
一、武蔵国中澤郷内和田村藤三郎入道有宗同田壱町同事
一、讃岐国多配郷内うなさかのやしろの事
右、所支証等相副多期弥七本長譲状、如件。

永正四年六月十二日   四郎左衛門尉   道忍(花押)


ここに記載した譲り状は、大山地頭の大きな分系と推察される中澤左衛門尉(壱岐守)信明と、その子孫である四郎左衛門尉道忍が書き残したもので、大山に伝わる貴重な地頭方の史料である
明智の丹波攻めに抗したため大山城は落城し、鎌倉幕府開府以降連綿と受けつかれてきた東寺との地頭請、下地中分の契約書状や、大御所安堵状、軍感状等の貴重な文書は、紅蓮の炎と共に焼失してしまった、

ここに記載する譲り状は、大山地頭の大きな分系と考えられる一族が所有していたものである。
本系がどれだけの所領を知行していたのかは不明であるが、同勢の久下氏とは鎌倉開府以前より室町後期まで久下中澤の一族と呼ばれる程の緊密な関係を続けてきた事から、久下氏が現在に伝える多数の感状や安堵状を基に、所領の増減をある程度推察する事は可能である。
しかし、それはあくまで推論の域を出ないものであり、残念ながら場所を特定することは出来ない。

これらの中で、武蔵国中澤郷に本貫の所領があることがわかる。また、上野国多胡庄も本貫の地であるのであろう。
一番目の譲り状と弐番目の譲り状とを比較すると、知行地が増えていることと、官名が異なっていることに気が付く。武蔵国中澤郷内のものと、讃岐国多配郷のものは、中澤七郎左衛門入道、同源内左衛門入道寿正から、信明が買い取ったことが記載されたいる。この副状とは、今で言う売買契約書にあたるものであろう。

七郎左衛門入道とは、地頭3代左衛門尉基員の弟である七郎左衛門基村のことである。基村には実子がなく、基員の子である彦七郎を猶子としているので、本来なら彦七郎に相続させるべき土地であるのに、信明に売却しているのは、彦七郎に何か異変が起こり、死亡したのかもしれない。

続く戦乱の世に活躍したことによって、この2ヶ月の間に室町幕府より恩賞として遊楽庄を与えられると共に、新たに壱岐守に叙任されたのであった。経済的余裕が出来たので、田畑を買うことが出来たのであろう。
中澤栄一氏は信明を中澤宗家の人かもしれないと推察されていたが、譲り状に書かれている知行地が少ないことから、私はやはり本系に近い分系であるのでは無いかと推察している。
栄一氏ほとの方が本系の人として挙げておかれただから私にはわからない何かがあるのだと思うが、残念乍ら今ではお尋ねすることも叶わない。


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