現在奈良国立博物館に所蔵されている国宝の當麻寺曼陀羅厨子扉に、仁治3年(1242)この扉を修復した時に勧進した結縁衆の名前が書き残されている。
この結縁衆の中に、「左衛門少尉藤原基政」の名が、5段に分かれている一番上の段、左から1/4程の処にある。上席にいるのは源氏と北条の一門で「守」に官職を得たものであり、左衛門少尉の2番目に基政の名がある。
武家の筆頭は時の執権北条泰時である。あと源義氏から順に「守」の官位を得た者が続き、次に左衛門少尉藤原朝臣行久、そして左衛門少尉藤原基政になる。行久は将軍頼経と共に鎌倉へ下向した公家であることから、基政は左衛門少尉では武家の筆頭にあたる。左衛門少尉の官位は「正七位上」であが、平家物語で義経は検非違使兼左衛少尉で五位に任ぜられてと書かれている。
この頃も左衛門少尉は検非違使の少尉を兼任していた事から、この扉に書かれている左衛門少尉は義経と同じように五位に叙爵されていたのかもしれない。なお大尉は従六位上、左衛門佐は従五位上の官位である。兼任することで官位を上げてもらっていたのかもしれない。
その後に、左衛門権少尉、大蔵少輔、散位、縫殿助、木公助、刑部丞、左近将監、右近将監、左衛門尉、右衛門尉、左兵衛尉の官位が続く。
左衛門少尉は大内裏内の警護及び行幸の際の供奉を担当する役職であり、左衛門尉の筆頭にある官職である。元は左右各二人ずつおかれたが、後に20人、25人となり、後世は70数名にもなった。この厨子扉に書かれている左衛門少尉は4人であることから、まだ官職を乱発していなかった時代であろう。基政は承久の勲功として丹波大山庄等の地頭職を得た、中澤小次郎左衛門尉基政のことであろうと考えると、南北朝から室町にかけての中澤一族の活躍について、誠に筋道の繋がった内容として理解出来るのであるが、実はもう一人、有力な基政がこの時期に存在していたことが判っている。
幕府引付衆であり、鎌倉歌人としても有名な藤原基政(後藤姓)である。父も幕府引付衆であり、歌人として有名な藤原基綱である。この基綱とは扉に見える「前佐渡守藤原朝臣基綱」である。
基綱は寛喜元年(1229)7月26日に叙爵、嘉禎2年(1236)3月19日に任佐渡守、その後、康元元年(1256)11月28日に死去するまでのある時点に、玄蕃頭に任命されている。
玄蕃頭の任命は、彼が鎌倉殿藤原頼経の近習や御所奉行を務めた ことによる恩恵かもしれない。
基政は仁治2年(1241)4月7日叙爵され、建長3年(1251)1月23日壱岐守に任じられている。(呆庵氏ご教示)
この扉には藤原姓で基と通字する者があと2人書かれている。左衛門尉藤原基明と右衛門尉藤原基定である。基定は東寺文書に見るように、大山地頭昇蓮の嫡子であり、大山地頭初代中澤基政の孫に当たる。尉官の違いから基明は基定の父、即ち昇蓮ではないだろうか。
ではこの基政は中澤か後藤かを検討してみるのであるが、残念ながらどちらも確実な証拠を見いだすことが出来ない。
後藤基綱−基政 後藤基政は基綱の嫡子であることは明らかであるので、ここに記載されている基政が後藤氏であることも考えられる。しかし父基綱の官職がが「前佐渡守」と書かれている事を考えると(嘉禎2年(1236)3月19日に任佐渡守)基政は既に叙爵されていると考えるのが当然であり(仁治2年(1241)4月7日叙爵)、左衛門少尉では官職が低いように思える。
後藤基綱は藤原時長流れ、養和元年に生まれ、鎌倉幕府引付衆であり、玄蕃頭正五位下に任ぜられていた。また歌人としても有名で、新勅撰和歌集には10首選ばれている。
後藤基政は建保2年(1214)年に生まれ、文永4年(1267)に54才で没しているので、この扉が修復された時は28才であった。扉の修復には2〜3年かかっていることであろうから、実際に勧進したとすれば24才の時であった。幕府引付衆であり、宗尊親王を中心とした鎌倉歌壇を支えた有力な歌人である。
吾妻鏡によれば弘長元年正月26日、及び5月5日に直観を迎えた柳営和歌会に参加しており、後勅撰和歌集以下に11首選ばれている。姓氏家系大辞典では後藤基政を「壱岐守」と伝えている。
頼経上洛の時は、御所の随兵192騎の55番に、佐渡二郎左衛門尉、同三郎左衛門尉と並んで、帯刀左衛門尉(基政)の名を見ることが出来る。
この2月の時点で基政は左衛門尉であったが、4月には後藤佐渡判官基政となっているので、この間五位に叙され、佐渡守に任ぜられたのであろう。
この後藤基政である可能性は高いが、基綱の系図には基明、基定の名前がどこにも出てこないので、確実な証明とはならない。
後年後藤氏は寛元四年(1246)に北条氏の権力争いに巻き込まれ、幕府内での地位を失ってしまう。
中澤基政ー昇蓮(基明のことか)−基定 中澤小次郎基政は吾妻鏡に何度も見える。昇蓮については近衛家文書では俗名を伝えていないのでわからないが、基定が大山地頭中澤小次郎左衛門尉基政の孫であること、即ち昇蓮の嫡子であることは、上記文書や東寺文書で明らかになっている。中澤基政については吾妻鏡に中澤兵衛尉基政、中澤左衛門尉基政として、また、東寺百合文書にある関東下知状の中に、中澤小二郎左衛門尉基政、嫡子昇蓮、孫基定、基員、基村等の名を見ることが出来る。こちらも基政と基定の祖父、孫の関係は推定されても、基明との関係が証明されない。後藤基綱とは全く違った家系である。
ここで暦仁元年(1238)の摂家将軍頼経の上洛について少し触れておかねばならない。
将軍の上洛は建久6年(1195)の頼朝以来、実に43年ぶりのことであり、幕府は早くから朝廷に使者を送り、ご家人に国役を課して六波羅に館を新築、増築するなど、周到な準備を進めてきた。
朝廷内では親幕派が主流をなしており、京都では「両太閤・摂政・相国桟敷において見物せらる。天下貴賤群衆す。」という状況であった。
吾妻鏡は将軍上洛の先陣の一五番に、中澤小次郎兵衛尉、同十郎兵衛尉成綱、河原右衛門尉が3騎並列でそれぞれ郎党を従えて晴れの上洛をする姿を伝えている。
これより少し前の文暦二年六月二九日に、新造御堂安鎮が行われたが、その時に中澤次郎兵衛尉、同十郎成綱は馬を一匹寄進している。
中澤栄一氏は次郎兵衛尉は基政の父、また十郎兵衛尉成綱は基政の叔父であろうと推定されていたが、暦仁元年は頼朝の旗上げより既に58年も後のことであるから、頼朝と共に上洛した中澤兵衛尉が生存していたと考えるのはいささか無理があり、この次郎兵衛尉とは小次郎兵衛尉基政のことであり、吾妻鏡を記録していた者が「小」を書き忘れたのであろう。そして十郎兵衛尉成綱とは小次郎基政の弟であり、分家である丹波国桑田郡別院庄地頭初代であると推定出来る。
頼経は10月に鎌倉へ下向するまで約10ヶ月間京都に滞在しているが、その間、公家達と親交を結び、朝幕関係の円滑を計る以外に、これといった行動はしていないようである。奈良春日社への参拝は幕府の威厳を南都に示す行為でもあった。
この参拝の時、十郎兵衛尉成綱は直垂姿で五人一組となり、頼経の輿を三交代で警護している。(吾妻鏡)。
源平合戦の折り義経が頼朝に無断で左衛門少尉で五位に任ぜられ、検非違使の宣旨を賜ったことから不和を生じたこともあって、それ以来幕府はご家人が将軍の承諾を得ずに官位を得ることを厳しく禁止していた。しかし当時の武士は官位、官職への憧れは極めて強く、鎌倉ご家人と雖も同様であった。
今回の将軍上洛は、東国にいて官位を得る機会が少なかった者にとっては絶好の機会であり、畿内に所領を持つ六波羅高官を通じて、様々な接触が貴族との間で行われたようである。六波羅に赴任していたご家人も官位の昇進を望んだことは当然の帰結であった。
「御在洛の次(ついで)、官位を望み申すの族、これ多し」として、幕府は禁止令まで出している。(吾妻鏡) この上洛で望みの官位を得ることが出来た者が、将軍頼経の勧進に応じて扉の修復に結縁したのであろう。この扉に書かれている官職名はべて昇進した後のものであり、その喜びを世間に公表する絶好の機会だったのである。
今回の将軍上洛に供奉することで、「左衛門少尉」兼「検非違使少尉」に昇進した可能性は十分考えられる。
南方第二面に「右兵衛尉藤原重光」という名が記載されている。重光は頼朝の石橋山旗上げにいち早く参加していた事は、平家物語や太平記に記載されている人物であるが、この扉が修復された時は頼朝の旗上げより既に62年が経過してい事から、久下次郎重光である可能性は低い。ただ、この扉には物故者の供養を求める意味合いもあったようなので、重光の嫡子が父の名で勧進したのかもしれない。もっと良く調べれば第二面に久下氏や大山地頭中澤の名を発見出来るのかもしれない。残念ながら文献には南方第一面と、北方第一面しか掲載されていない。博物館他で面をガラス越しに読み取ろうと試みたが、修復されてから既に750年以上たっているので、短い時間では不可能にであり、諦めた次第である。
平家物語において、河原太郎、次郎兄弟が三草戦で奮迅の働きをする前に、「大名は家人の功名によって、自ら手を下さずとも名誉する」という下りがあるが、河原氏を中澤郷内に神社を建てて祀っていることを考えると、河原の属した大名とは中澤のことだったのだろう。しかし後年数人の郎党を従え、中澤兵衛尉と並んで晴れの上洛をする河原兵衛尉を吾妻鏡にみることから、河原氏もまた中澤の一族であったと考えるのが妥当かと思う。
久下氏が今に伝える系図は弘治元年(1555)の編纂であり、極めて信憑性の高いものであるが、その中で、久下氏は頼朝が旗上げした頃の「直光・重光・実光」の祖父の頃に中澤を称したとの伝承がある。ことから、久下氏もまた中澤の一族郎党であったのかもしれない。
承久の乱の勲功として丹波国多紀郡大山庄、同国桑田郡弥勒寺別院庄、讃岐国多配郷うなさかの社の地頭職を得た基政であるが、この扉に書かれている場所を考えると、本貫の武蔵国那珂郡中澤郷、上野国多胡庄以外にも多くの所領を得ていたことは間違い無いであろう。そして基政が後年大山に移住して以来、その本系が丹波大山に移ったことは疑いの余地が無いほど明らかである。
基定は文永3年(1266)東寺文書のなかで自ら「源基定」と署名している。仁治3年に藤原氏を名乗っていたものを源姓に変更したのは、これより少し前に源氏一族に準ずるという扱いをされるようになったのか、もしくは基定の妻が有力源氏の一族から嫁に来ていたのであろう。それも名前に「義」が付く有力な源氏であったのかもしれない。
しかし、基定の弟、基員に地頭職が引き継がれた後で、荘園領主である東寺と永仁3年(1295)下地中分を行うのであるが、その時の文書では「源」姓を書いていない。この時代は北条氏全盛の時であり、あえて源姓を名乗る事を躊躇するようになったのだろうか。基定と基員が兄弟であることは間違いないが、弘安10年12月10日の関東下知状の中で、「基定為父昇蓮被不孝畢。」と書いていることから、何か確執があったのかもしれない。昇蓮の逆鱗に触れのか、それとも若くして死亡したのか、いづれにせよ大山地頭職惣領の立場が弟の基員に引き継がれた事は事実である。
この扉の修復には莫大な費用が必要であり、その費用を調達する為に誰が頼経の心を動かしたのかという疑問が出てくる。これについては法然上人の弟子で、「當麻寺曼陀羅注」を顕わした西山浄土宗の開祖である「証空上人」に頼経が師事した事から、武将達も頼経の信仰にならったものとされている。(大和古寺大観 当麻寺)
頼経が在京したのは約10ヶ月である。この間に朝廷や公家との交流、さらに奈良春日社への参拝等多くの行事が続いていた筈である。そのような時に厨子修理事業を頼経に決意させることが出来た証空上人が、いかに厚い信頼を得ていたか理解出来る。また朝廷よりの官位叙爵という喜びに溢れている幕府武将にたいし、扉に新たな官位で名前を記載するという事で、多くの寄進をさせることが出来た政治力を認めずにはいられない。
この曼陀羅厨子扉に書かれている基政がだれであったのだろうか。後藤基政だとすればこの時既に佐渡守に任ぜられていた筈であり、佐渡判官を左衛門少尉と考えるのは少し違うような気がする。
やはりこの基政は、頼朝の石橋山旗上げにいち早く参加してきた中澤次郎兵衛尉の嫡子であり、鎌倉に幕府の庁人として在住していた中澤小次(二)郎基政のことではないだろうか。
基政について断定することは出来ないまでも、基定の名が記載されていたことは大きな意味を持つ。
この基定が後藤氏でないことは明らかであるので、大山地頭三代中澤基定のことであろう。そしてこの扉は、このこの時まで藤原氏を名乗り、源氏への転姓は行われていなかったことを証明している。
参考文献
大和古寺大観 当麻寺 岩波書店
大山村史 大山財産区発行 塙書房
京都の歴史(2) 京都市 学芸書林
人物でみる日本荘園史 東京堂出版
1999/02/06