源姓への転換と義経伝説


丹波大山には中澤氏にまつわる三つの義経伝説が、さも最もらしく伝えられている。

  1. 義経の三草戦に従って武功があった
  2. 義経に女を入れて、その子供で跡を継いでいる。
  3. 義経の女を入れて、その子供で跡を継いでいる。
これらについて、中澤栄一氏は下記のような見解を述べられているが、當麻寺曼陀羅厨子扉に書かれた鎌倉武将名簿により、大山地頭三代右衛門尉基定の時まで「藤原」姓を名乗っていたことが確認される。基定へ地頭職が引き継がれた後に、「源」姓への変更が行われている事から、源氏一門に加えられたのは仁治三年に當麻寺曼陀羅厨子扉の修復開眼供養が行われた時以降であることは間違いない。栄一氏の説に私なりの考察を加えることで、源氏への転姓を説明出来るのではないだろうか。

(3)は近く宝永の作であり、広く行われた(2)説をひねくったものであろう。(2)は文書事態が奔逸で、大山中澤氏の出自をさえ誤り、義経が三草戦の軍旅多忙の際に、大山中澤氏の女をはらませるような無理を犯している。
大山の伝承では、中澤氏の西上を遠く承平の乱にとっており、従って義経三草戦への参加は、かの有名な鷲尾氏と同じく、大山より出陣した事となる。しかし前に掲げた中澤小次郎は、前代、次郎兵衛尉の頃より鎌倉に住み、補任後も大山に来往した事は明かであり、(吾妻鑑)又、後に視る事になろうが、地頭として来往後の挙措に依っても、承久補任以前より大山に在住したのは考えられず、承平は恐らく一字違いの承久の謬りであろう。
この時将門の侍として共に西上した党侶を酒井、高藤、鷲尾としているが、酒井も高藤もこの伝承が書かれた近世初期には盛んな家であるが、酒井は承久の来郡であり、高藤も明徳を遠祖とする家である。(2)を載せている地方雑書、籾井家日記、丹波風土式は前者が後者を引いたか、或は一般に行われていた伝説をとったものであろうが、一つは中澤氏が丹波土豪中に認められた旧家観に発するものであろうか。
しかし(1)の伝承、義経一の谷合戦への従軍は素型として十分考えられていいようである。鎌倉幕府御家人として源平戦への西上従軍は当然であるが、中澤氏の属したと思われる所属武士団の活躍が見られるからである。 平安の末、私田、荘園がはびこって、武士が社会構造の一階層を作るようになってから、諸国にその党与化が進み、関東では武蔵七党と言われるものになった。 地勢と大型名主がその形成を助けたとせられ、御牧(御料牧場)の存在が、武士の機動化を助けたといわれる。これを、全国的にして源平の二大勢力となったが、この武士層の実力を皇室及びこれを取り巻く貴族達の権力闘争に利用されたのが、保元、平治の乱である。平治の乱(1158)では源平相対決せしめられ、源氏は一朝にし屏息するが、関東方は源氏伊豆の流人頼朝を立てて西の平氏に対し大挙西上することになる。時に1180年前後の事である。武蔵七党私市党の久下重光は頼朝石橋山の旗揚げに率先参加し、一番の紋章を賞せられたとの伝承を誇っている。
関東地方では武蔵七党の系譜を今に伝えているが、必ずしも同族の結団ではないことは想像に難ならぬところである。党の区分も名称も一定せず、その根拠も錯走し、その氏姓にも平氏、藤氏あり、又、秩父の如く地域を以って呼ばれるものさえもある。私市党は久下氏の外、成木、市田、揚井、草原、河原、太田、騎西、等の諸氏により成るとせられ、久下、河原の根拠は北埼玉であった。 久下氏の淵流は諸書にあげられ、欽明天皇の子磯部親王に出るとするものから、藤原秀郷にひくとするもの、又、称徳天皇代の私市広義とし、或は牟自とするもの等帰するところがないが、いづれにしても皇妃領使から舉ったことには相違なく、或は国衛の要役を経た者のようである。
前に擧げたように関東源氏挙兵の頃には、一党勢力を形成したらしく、源平盛衰記には範頼軍に従う久下実光、義経に従う久下権頭直光を擧げている。範頼軍中に河原太郎直高、同弟次郎盛直があって一の谷戦で奮戦したことも同記のとおりである。 久下氏の後裔、氷上郡前山村久下氏の伝える系図は弘治元年(1555)の編集であり、多数の証拠書類の存在によって、信証度の高いものであるが、この系図はこれら頼朝挙兵期の「重光、直光、実光」の代の祖父の頃に、久下氏は中澤を称し、或は中澤を分家したと記している。
即ち系図のこの部分は時間的に不正確であるにしても、中澤即ち中澤郷に関係を持った事が推定されるのであるが、ここで久下党河原氏が中澤郷秋山で祀られていたことを想起したい。 而も、後に述べる事になろうが、吾妻鑑は嘉禎四年(1238)二月十七日、鎌倉より上洛する将軍の行列中に、中澤次郎兵衛尉、同十郎兵衛尉と河原兵衛尉と三騎併進の情景を掲げておるのを見ると、中澤氏は久下分流ではない迄も党与関係にあった事は明かで、久下、河原の如くも史誌上に名は表れなかったが、源氏軍に参加し、後日入丹の子孫が祖先の武勲を誇り、これが(1)の素型として伝承したものではあるまいか。 前の久下系図は、伝承として、遠祖が多田満仲の子を養子に迎えて源氏となったとしている。
藤原秀郷を遠祖とするものは、源氏への帰姓を脱していてその虚偽を自ら暴露する。大山中澤の伝承も秩父流れ、或は藤原氏を称しており、元に大山三代基員が源氏を称したのと相合わないが、又、伝承は、六孫王経基の館にも仕えたと語って、源氏関係を示しておるところを見ると、義経関係を強調することも、源姓転換を殊更にいうものであるかも知れない。
即ち遡れる限りに於て、中澤氏は1100年頃、武蔵七党私市党に属した武士の家であり、鎌倉開府の後は、御家人となっていたと言う事である。 伝承の内には中澤氏を里見氏につないだものがあるが、この家は大山中澤氏に近いにも拘らず中澤郷を知らず、軽率に中興系図に因ったことは惜しまれる。 又、紀氏の末とするのがあるが、譲り状の存在を知らななった為にこの謬りを犯したのであろう。

以上が栄一氏が書かれた「中澤家誌」の中で述べられているものである。これを脱稿されたのは昭和41年であり、大山地頭に対する史学の研究もまだ始まっていなかった時である。当然のこととして當麻寺曼陀羅厨子扉のこともご存じなかったであろう。藤原氏の流れであると伝えることが、東寺文書の中で基定が源姓を称したのと相違することから、藤原氏の流れというのを認めておられなかった。それは私も何度かお聞きしていた事である。
本年1月16日に、奈良国立博物館で當麻寺曼陀羅厨子扉に書かれている人名を発見しなかったら、私も永遠に藤原氏流れというのと肯定していなかったであろうことは間違いない。
この厨子扉に書かれている人名が基政だけであったならば、私も藤原氏で同名のものが存在したとの解釈しか出来なかったと思うが、基政の孫に当たる基定まで記載されているに事から、基政が後藤氏であったとしても、中澤氏が藤原姓を名乗っていた事は間違いないだろう。
これよりの論説はこの基政が中澤氏であったと仮定してのものである。後藤基政である可能性も十分あるので、そうだとすると私の考察は再考を迫られることになる。それを理解した上で少し考察をしてみる。
この扉に記載されている基政は、金枠で囲まれた中では16番目の席次にあり、枠外に書かれている上席3名の者を加えても113名中で19番目に存在している。さらに、基明(昇蓮?)、基定と親子孫3代の氏名をそれぞれ藤原氏として記載していることを見ると、この時点では源氏への転姓は行われていなかったことになる。
そこで基定がなぜ源姓へ転姓したのかを検討するのであるが、まずは基政が幕府の中でどのような地位についていたかを考えなければならない。中澤氏は鎌倉開府の頃より鎌倉に館を構えて居住していたことは吾妻鏡で確認出来るし、中澤小次郎左衛門尉基政は、承久の勲功として丹波、讃岐の新地頭職を得た後も、現地に代官や子供をおき経営に当たらせ、幕府に参じて余録を受けていた。(東寺文書、関東下知状、吾妻鏡)
この厨子扉が修復されていた時期に、丹波大山庄の荘園領主であった東寺は地頭中澤との問題を解決すべく、「地頭請け」にするよう鎌倉幕府へ訴えを起こした。この判決が下されたのが仁治2年(1241)のことであり、基政が将軍頼経と共に上洛し、無事に任務を終えて鎌倉に帰ってから間もない時であった。この訴えは認められ、大山庄の実際の管理を一切地頭にゆだね、東寺へは毎年一定額の年貢を送るという契約を結んだ。(東寺文書)
しかし、これは明らかに地頭方に有利なものであり、地頭中澤基政は大山庄の実質的な人的支配権(下地進止権)を確立し、地頭領主制への基礎を固めることになった。
丹波国多紀郡大山庄東寺領、同国桑田郡仁和寺別院庄、讃岐国多配郷うなさかのやしろ等の地頭職を基に下地の進止を拡張し、経済的に豊かになった中澤基政が、将軍頼経や執権による厨子修理の勧進に際し、大きな感謝の気持ちをこめて、親子三代で寄進したことは想像に難しくない。
この扉に書かれている武将名の考察はなかなか難しく、殆ど進んでいないのであるが、勧進をした時点で将軍頼経とともに上洛していた武将、および六波羅探題で要職についていた武将であると考えられる。執権泰時の名が武将の一番に書かれているが、泰時は開眼供養が行われた同年に死亡しているので、この頃は執権職の代表からは少し離れていたのかもしれない。そして「守」の官職を得ている者の殆どが「前」であり、現職で「守」に叙任されているものは、相模守平朝臣重時ただ一人である。このことから、幕府を動かしていた者は、殆ど鎌倉に残っていたのかもしれない。
文永3年(1266)に基定が書いた下知状と地頭請文案に「源基定」と記載している事から、基定の嫁は有力源氏から嫁してきたのではないかと推定するのである。祖父基政より格下の源氏より嫁してきたのであれば、わざわざ源氏姓に転姓する必要は全くないのであるから、仁治3年頃に基政より上席にいた源氏を探さねばならない。そうすると厨子の中で時の執権北条泰時の次に書かれている「前陸奥守源朝臣義氏」が有力な候補として上がってくる。鎌倉には他に源氏一門の者が多く残っていた筈であるが、今はこの義氏である可能性について少し考えてみる。
義氏には2人の女子があったが、一人は藤原隆親に正妻として嫁ぎ、その子四条房名は四条家の開祖となっている。(藤田敏夫氏ご教示) またもう一人は新田政氏に嫁いでいる事を考えると、義氏の子供という可能性は低いが、京都においていた女に生ませた子供がいたのかもしれない。もう一つの可能性は義氏の孫、つまり泰氏の娘という事が考えられる。泰氏には3人の女子があったが、その嫁ぎ先は判っていないようである。
このころ、幕府ご家人は都の文化に憧れ、娘を公家や六波羅庁人のもとへ嫁すことは頻繁となった。当時は女子にも所領をつけて嫁に行かす習慣であったので、所領の分裂を生じることから、幕府が禁止するまでになっている。京都に館を構えていたと思われる基定のところへ、祖父基政と昵懇な間柄であった有力源氏から女が嫁してきたことは十分考えられることである。
大山に伝わる「義経」伝説とは、実は「義氏」またはその一族で「義」の付く者の娘だったのであろう。義氏と基政は共にご家人の二世であり、承久の乱でも一緒に戦った仲間である。
源義氏とは足利氏3代の足利義氏のことである。義氏の血縁者という考えに立てば、基定の代から源氏の有力傍流として源姓を名乗ったのも十分理解出来るのである。
仮に、この厨子扉に書かれている基政が後藤氏であったとしても、基定から見て上席の源氏は、あと、「左近将監源胤」、「左衛門尉源友高」しかいない。しかし、友高が基定と席次で4つしか違わないことから、これをもって源氏への転姓原因とは考えにくい。また左近将監源胤の娘であったとしても、官職では姓を変更しなければならない程の違いではないと思われる。いづれにせよ、基定が有力源氏(名前に義がつく人物)の娘を正妻として娶ったことにより、源氏へ転姓したと推察するのが妥当であろう。
時代が進み、永仁三年(1295)に基定の弟である大山地頭4代基員になって、小領主的大名への足がかりとなる下地中分を行うのであるが、その後に基員は幕府より丹波国内の狼藉人を追捕に当たる両使として任命され、丹波国内で大きな力を発揮している。この時の史料は「丹波国内のご家人に触れるよう」と、ご家人の代表者として基員に指示を出している。(東寺文書)
この当時、丹波の守護は北条氏一門に伝えられていたことから、基員は守護、北条氏一門や六波羅探題の高官と極めて密接な関係にあったと考えられる。(日本の歴史 中央出版社)
後年南北朝争乱のおり、後醍醐天皇の綸旨に応じた荻野朝忠は丹波氷上郡高山寺に構えたが、中澤、久下はそれに応ぜず足利尊氏の篠村での旗揚げに率先して参加している(太平記)のも、足利との姻戚関係があったとの推定を裏付けるものであろう。
この篠村とは丹波国桑田郡別院庄の分家地頭中澤左衛門尉佐綱が領地していた場所ではないかと思われることから、中澤一族は足利尊氏の篠村挙兵に当初から深く係わっていたことが推察される。佐綱は足利が篠村で所有していた領地の代官職を引き受けていたのかもしれない。

尊氏の挙兵がなぜ篠村であったのか、その理由のヒントがここにあるように思う

結論として考えられるのは、天正の落城により鎌倉開府以降受け継いできた文書の殆どを焼失してしまった為、言い伝えを聞いた者が義氏もいくは「義」の文字を持った有力源氏の名を有名な義経と誤って誰かに伝えた事によって、義経の後胤であると言うような系譜(伝説)が後年になって作られたと推定するのが妥当であろう。

伝承とは伝えて行くうちにドンドン話が面白くなってゆくものなのである。

参考文献

大山村史 大山財産区発行 塙書房 大和古寺大観 当麻寺 岩波書店 人物で見る日本荘園史 東京堂出版
京都の歴史 京都市 学芸書林 日本の歴史 中央公論社

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