丹波大山城の考察
中世丹波大山地頭として活躍した中澤氏の居城である大山城は、兵庫県多紀郡丹南町大山にある。
地元では大山城主は太平記や明智軍に参加した武将の軍記から長澤氏であるとし、長澤屋敷とも伝えている。また、篠山川と大山川が出合うところに位置していたことから、その一帯の呼び名である「出合の城」とも呼ばれている。
承久の乱の勲功により鎌倉幕府のご家人であった中澤小二(次)郎左衛門尉基政は、恩賞として丹波国多紀郡大山庄の地頭職を賜り、当初は代官を派遣して経営に当たらせていたが、荘園領主の東寺と下地中分をしたころから大山に移住し、直接経営を始めた。
このころ地頭中澤の居住していたのは、今の池尻神社がある独立丘陵の南側の台地になっている処ではないかと推定されていた。東寺文書中に「池尻東殿」、「地頭東殿」という記載があり、「カジヤガイチ」「ドイノウエ」等の地字がすぐ近くにあることや、地頭の菩提寺であったと伝える「長安寺」の跡にも近いことから間違いはないと思われていたが、推定の域を出なかった。
しかし、1984年から始まった圃場事業に先立ち、丹南町が大山庄の歴史的価値について深い理解をもたれていたことから、兵庫県教育委員会や学者の先生方のご協力を得て、国庫補助事業として大々的な発掘調査がおこなわれ、大山庄を研究するとともに、大山入部より中澤氏が構えていた地頭屋敷や後の居城であった大山城の発掘調査がおこなわれ、史学、考古学、民族学等の学者が協力され、学術的に大きな成果を得られたことにより、大山城の歴史的存在が明らかになってきた。
大山庄の発掘調査により、中澤栄一氏の詳細な研究が学者の皆さんによって傍証を受けたとも言える。
調査の報告書は膨大な研究論文として出版され、また、今回京都大学の大山喬平先生が編集された「中世荘園の世界」−東寺領丹波国大山庄−が出版されたことで、私のような市井の者にも大山庄の歴史を理解出来るようになった。
大山村史編纂の時に故中澤栄一氏が作成された大山城の地図。当時は発掘調査が行われていなかったが、今回の発掘調査の結果と殆ど違わない内容であり、栄一氏の研究がいかに素晴らしかったかを実感させるいものである。
大山市場付近より大山城を望む。中世にはこの市場の場所は「市庭」と呼ばれ、市が立っていた。大山城がある出合は中世の山陰街道の面していた事から、交通の要として戦略上重要な場所であり、中澤氏が池尻の地頭屋敷からこの場所に本拠を移した理由は十分理解出来る。
明智の大軍に攻められた時に城主の弟である源吾は城外で酒井文水と戦い、相手方に深手を負わせるも多勢に囲まれ戦死したとの伝承があるが、その場所は恐らくこの市場付近であろう。
城跡の本丸があった処より大山川を望む。この城は大山川と篠山川の急峻な崖と西側の自然の地溝に3方を防備され、北に3条の空堀を設けることで中世の平地城としてはかなりの防御力を備えていたと思われる。本丸の東側には馬だしや武者隠しが備えられ、攻撃力も相当なものがあったようであるが、明智の近代兵器の前には無力に等しかった。
現在この場所にダムが作られてので急峻な崖はわからなくなってしまった。治水用水の為とは言え、残念としか言いようがない。
城跡の本丸付近。いまは長閑な栗林になっているが、400年余前にこの場所で熾烈な戦闘が行われたのかと思うと感慨深いものがある。
刀や槍の戦いには相当な防御力を持っていた大山城も、対岸より火薬を使った火矢を仕掛けられて炎上し、若き藤堂与吉高虎(後の伊勢津藩主)に一番乗りの高名を許してしまった。高虎はこの戦いで保侶武者になった。城主中澤孫十郎伯耆守重基
は家老向井左近の介錯を受け自刃。城宇は灰儘に帰した。
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