丹波国多紀郡大山庄地頭 中澤氏の研究
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丹波国多紀郡を本拠とする鎌倉地頭中澤一族を代表する紋である。大山庄の式内神田神社は元禄期まで神紋としてこの紋を使用していた。南北朝の動乱において、鎌倉幕府より後醍醐天皇、大塔宮に組した赤松勢を打つべく上洛し、名越氏とともに六波羅を出発した足利尊氏は、久我にて名越氏が打たれたのをみて急遽丹波へと逃げ込んだ。そのときに尊氏を助けたのが鎌倉開府以来の源氏の党友である「久下:中澤の一族」であった。室町幕府奉行人中澤氏の紋所として伝えるこの「三ツ星酢漿草ニ引両」は、丹波国多紀郡大山庄、遊楽庄、桑田郡別院庄に勢力を得ていた中澤三家を代表して、足利のニ引両を加えたものであろう。 |
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中澤氏の定紋は酢漿草(カタバミ)。これは鎌倉開府前より使用していた。丹波大山地頭として350年に渡り大山を統治した中澤一族は、多くの寺社仏閣に酢漿草紋を残している。いま丹波大山に居住されている一族の方は殆どこの紋を使用されている。 同勢である氷上郡栗作郷の久下氏は、頼朝より与えられた「一番」という文字を家紋としているが、その前は酢漿草を使用していた。中世に「久下、中澤の一族」と呼ばれていたことがこれで理解出来る。 |
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代(かえ)紋(裏紋)は左三つ丁字巴。これは源氏の紋と言い伝えられている。明智の丹波攻略により落城した中澤一族から分家して武士となった大和郡山中澤氏は、本家に敬意を表して酢漿草を用いず、左三つ丁字巴を定紋としている。大和郡山藩には中澤氏は3家系あり、長兄の中澤松栄家と末弟の小一(市)兵衛家はこの紋を使用しているが、次男の小平太家は左二つ丁字巴を使用している。 著者は小一兵衛の家系である。 |
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賜り紋として伝える丸の内に二引両は足利の紋であり、尊氏が丹波篠村で反幕の旗揚げをした時に率先して参加し、また、三度にわたり京を追われた尊氏親子を氷上郡石龕寺に庇護した丹波侍に使用を許されたものと伝えられている。 いま中澤を名乗るものでこの紋を定紋としている家も少しある。これらの家系は大山中澤氏の存在を知らず、また、後に述べる「信明譲り状」の存在も知らなかったので、安易に伝承を元にした系図を作ったようである。本系に近い分系でこの紋を定紋としている家で系はいないようであるが、系図には尊氏公より丹波侍に許されたものと記載されているものが多くある。 |
武蔵国那珂郡中澤郷、上野国多胡庄を本領とする中澤一族は、源頼朝の石橋山における旗揚げの頃より源氏に参加していた。同勢の久下氏は源平合戦の時に義経、範頼軍の侍大将として参戦し、また同勢の河原氏も一の谷の合戦で大活躍している事は吾妻鏡や源平盛衰記の語る処である。
吾妻鏡は源平合戦が終結し頼朝が上洛する建久元年(1190)に、畠山重忠率いる先陣180騎中に中澤兵衛尉がある事を伝えている。また、正治元年(1199)に鎌倉浜で火災にあった中澤兵衛尉の事を伝えている。この事から、中澤氏は将軍直属の武士団として幕府に参じ、鎌倉に館を構えていたことが理解できる。
承久の乱において中澤小二郎左衛門尉基政、同十郎兵衛尉成綱に勲功があり、本領を安堵された上で、新恩として丹波国多紀郡大山庄東寺領、同国桑田郡弥勒寺別院庄仁和寺領、讃岐国多配郷うなさかの社等の地頭職が給された。
基政は地頭補任後代官を派遣して荘園の管理に当たらせ、十郎兵衛尉成綱と共に幕府に参じて余録を受け、将軍上洛の折には先陣を勤め、また、将軍が春日社に参拝する折には十郎兵衛尉成綱が直衣姿で警護に当たる等、将軍直属の武士団として活躍したが、後年自ら大山庄に移住し、大山中澤氏の初代となった。
ここに挙げる人名は東寺文書、近衛家文書、仁和寺文書、明王院文書、當麻寺曼陀羅厨子扉等から時代の流れと共に書きだしたものであり、必ずしも親子関係を表しているものではない。
従って正しい系譜とは到底言えないが、大山地頭の流れを理解する事を目的とするならば、巷に有りがちな伝承系譜とは全く異なった、第一級の歴史的史料に基づいて作成された価値のあるものだと思う。
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+----中澤(次郎)兵衛尉 ---------- 小二(次)郎左衛門尉基政------------+
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| 鎌倉幕府御家人 鎌倉幕府御家人 大山庄地頭初代 |
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| 文歴二年六月、将軍新御堂 嘉禎四年の将軍頼経上洛に御所の随兵 |
| 造営の安鎮式に馬を献上する 一五番として、叔父十郎成綱、同族河 |
| 原右衛門尉と3騎並列で供奉する。 |
| 當麻寺曼陀羅厨子扉に左衛門少尉基政 |
| の名がある。後藤基政の可能性が高い |
| が、中澤基政も否定できない。 |
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+----中澤十郎兵衛尉成綱--------------------左衛門尉佐綱-------- |
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鎌倉幕府御家人 弥勒寺別院村地頭初代 別院村地頭2代 |
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嘉禎四年の頼経上洛に供奉し、春日社 仁和寺と下地中分を果たす |
参拝の際には頼経の輿を警護する。 |
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+--------------------------------------------------------------------- +
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+------昇蓮(左衛門尉基明?)-------------------------------------------+
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大山地頭2代 東寺文書では俗名が伝わっていない。仁治3年(1242) |
當麻寺曼陀羅厨子扉の改修に結縁した者の氏名の中に、基政、基明、 |
基定の名前が記載されている。基政が中澤であるならば、基明とは恐 |
らく昇蓮の俗名あろう。後藤基政であれば全くわからない。 |
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+---------------------------------------------------------------------+
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+ --- 左衛門尉基定 (大山地頭3代)
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| 當麻寺曼陀羅厨子扉に結縁衆とし記載されている藤原基定のことか?
| 若くして死亡したらしく、地頭職は弟の基員に引き継がれた。
| 基定は東寺文書の中で「源基定」と署名しており、大山や久下氏に伝わる
| 藤原氏流れという伝承と合わない。厨子扉の基政、基明、基定は藤原姓を
| 称しているのに、なぜ「源」姓に転換したのか。有力源氏より嫁を迎えた
| ことで源氏の一門として許されたのであろうか。
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+--- 三郎左衛門尉基員(尊蓮)大山地頭4代-----------------------------+
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| 大山地頭として奮迅の活躍をし、荘園領主の東寺と下地中分を果たし、 |
| 小領主的大名の基礎を確立した。兵庫県人名辞典に掲載されている中 |
| 澤三郎とはこの基員の事である。 |
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+--- 宣基六郎 |
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+--- 基村七郎(左衛門入道直蓮)......彦七郎 |
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+------------------------------------------------------------------------+
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+--+-----新左衛門尉直基(大山地頭5代) ---------------------------------+
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| 基政の時代よりとかく紛争が絶えなかった近衛家領宮田庄との間 |
| で「大袋大犯」と呼ばれる武力による抗争をおこし、近衛家より |
| 幕府に提訴された。この頃基員、直基は京都に館を構え、訴訟を |
| 担当する幕府の高官とも烏帽子親や姻戚関係があり、極めて昵懇 |
| な間柄であったことが指摘されている。事実この訴訟も関係者の |
| 仲立ちにより、山水契約を交わすことで和解が成立した。 |
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+-----弥三郎入道道念 |
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+-----彦七郎(直蓮猶子) |
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+-----小三郎 |
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+-----田中入道 |
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分家地頭中澤田中氏の初代 |
東寺領一井谷の約5町の田を横領したとして、訴訟される。 |
これ以降延々とこの問題は引き継がれて行く。地頭領主制の |
発展途上、領家下地への侵略は当然のことであった。 |
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+------------------------------------------------------------------------+
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+--+-----源内左衛門寿正(大山地頭6代).........信明相続
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+-----次郎右衛門祖道(岸の二郎)
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+-----五郎左衛門宣秀(大山地頭7代)---------------------------------+
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分家地頭田中が東寺領の五町の田を横領したとして訴訟された時 |
事実無根であると反論を加えた。幕府は東寺の言い分を認め、守 |
護の山名氏清に当該田を返却せしめるように命ずるが、山名氏清 |
は中澤の側に立ち幕府の命令を無視し続けたので、代々にわたり |
この問題が未解決として受け継がれてゆく。 |
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+-----------------------------------------------------------------------+
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+--------壱岐守(左衛門尉)信明(大山地頭8代)-------------------------+
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有名な「信明譲り状」を残している。譲り状の中で大山庄につい |
ては一部の地域しか記載されていない事から、信明は地頭の本系 |
の人ではないと思われる。 |
当時は分割相続が行われ惣領が一族を代表したが、信明は本領の |
中澤郷の一部、上野国多胡庄の一部だけでなく、讃岐国多配郷や |
桑田郡別院庄の一部も知行している事から、比較的大きな分系で |
あったようである。 |
大山庄には「基」を通字とする本系と、「信」を通字とする分系 |
があったとされる所以である。 |
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+-----------------------------------------------------------------------+
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+--------三郎左衛門尉益基 (大山地頭9代)------------------------------+
里三郎のち三郎と称す |
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建武二年、中澤三郎入道は、新政によって丹波に入部した碓氷盛 |
景を、久下弥三郎時重、波伯々部左衛門尉達と共に守護の館へ襲 |
撃して摂津へ追い払ってしまい、自分たちに都合の良い仁木頼章 |
を守護に据えるという、驚くような実力行使を行っているが、こ |
の三郎入道とは益基の事であろう。 |
後に室町幕府奉行人として活躍した中澤三郎入道である。 |
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五郎左衛門宣秀代の五町田事件と呼ばれる東寺領の約五町の田に |
ついて、またまた東寺より訴訟されるが、奉行人の飯尾大和入道 |
の助けを得て沙汰やみとなり、守護の遵行もなく完全に自領とし |
てしまったようである。 |
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+-----------------------------------------------------------------------+
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+--------修理亮基継(大山地頭10代)-----------------------------------+
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永享13年(1442)守護段銭により中澤の菩提寺である長安寺を造 |
営する。 |
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+-----------------------------------------------------------------------+
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+--------帯刀左衛門尉元基 (大山地頭11代)----------------------------+
弥三郎のち帯刀と称す |
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文明14年東寺領の代官として起用され、大方分年貢を20貫文 |
で請切り、10貫文は直ちに寺納し、残りは国へ入部した後、寺 |
納すると約したが、約束は守られなかった。 |
元基はこの時10貫文を直ちに東寺に支払うことが出きる程、経 |
済的に豊であったことが推察出きる。 |
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+-----------------------------------------------------------------------+
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+--------日向守元綱(大山地頭12代)-----------------------------------+
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元基に引き続いて東寺領の代官として起用される。名前から推察 |
して元基の子であろうが、「綱」は別院庄の一族の通字である事 |
から、別院庄から入った人かもしれない。もしくは、母方が別院 |
の中澤氏なのかもしれない。 |
永正5年7月4日、守護細川氏の内紛に巻き込まれ、細川高国の |
被官であった波多野氏と戦い戦死した。 |
以後地頭職を波多野が奪い、東寺領としての荘園は終焉を迎える |
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+-----------------------------------------------------------------------+
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+-+------備後守光俊 他郷に居住していたので家基が後を継ぐ。
| 掃部大夫 豊前守とも称す。
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| 守護大名波多野氏の幕僚であると共に、生涯を通じ室町幕府奉
| 行人として活躍した。
| 三好による京都制圧の際には拘束されて失脚するが、三好が京
| 都を退却するとすぐに復帰している。このころは正に命をかけ
| た攻防が続いていたようである。
| 氷上郡黒井の中澤氏は光俊の後裔と伝える。
| 光俊の位牌は、丹波に「光党」があったと伝えている。
| 「光党」とは、光俊を軸とした武力同盟であろうか。
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+------家基(大山城主)------------貞基 (大山城主)------------------+
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| 元綱の戦死により、大山庄の地頭職は無くなったが、波多野支配 |
| 下の外様として七頭七組七先鋒隊のうち、七頭の一つに入り、な |
| お大山城主として大山を支配し、年貢、段銭等を波多野氏に納め |
| て勢力は保持していた |
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+------新三郎賢基 |
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| 大山庄の南にある今田の和田寺に下知状を残している。また、酒 |
| 井家の帳に書き判(花押)が残っている。 |
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+------四郎左衛門尉道忍---------------------------------------+ |
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壱岐守信明と同様の譲り状を残している | |
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+-------------------------------------------------------------+ |
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+------治部大夫(義遠)---------------------------------------+ |
多期(紀)弥七本長と同一人物か(?) | |
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戦死 城主孫十郎を後見していた為城主と誤って | |
記載しているものが多く、氷上郡赤井家の軍師で | |
あったとも伝える 明智軍記にも登場する。 | |
(長澤治部大輔義遠との記載多し) | |
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+-------------------------------------------------------------+ |
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| +---------------------------------------------------------------+
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| +---------孫十郎伯耆守重基(大山城主)
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| | 重國とも伝える明智の丹波攻略により落城 自刃
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| | (注)
| | 重基が城主であったと言うのは大山の伝承であり、確証はない。
| | 攻軍方は城主を長澤治部大輔義遠と軍記に記載している。しかし
| | 大山記では城主を29才(27才とも)と伝えており、落城18
| | 年前に当時八上を制した松永蓬雲軒が中澤治部大夫に宛てて久下
| | 左近と領地の交換を勧めている事から、治部大夫と重基は別人で
| | あると考えざるを得ず、大山記の伝承を採った。本当はどうだっ
| | たのか、地下に眠る遠祖にしか分からない。
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| +---------源吾(戦死 安永大山記)
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| | 城外で酒井主水と戦い、主水に手傷を負わせるも多勢に囲ま
| | れ打ち死に。主水はその傷が元で後日死亡と伝える。
| |
| +---------与吉郎(安永大山記に名前のみ記載)
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+-----+---------帯刀------------ 子孫は氷上郡に落ちたとの伝承がある
| 戦死 射死と伝え
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+---------隼人---------------+------徳永中澤本家初代
戦死 射死と伝える |
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+------町之田中澤分家初代
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+------町之田中澤二代
落城時に叔父出雲守、一族の空心、豊後之介、帯刀左衛門がおり、名主は家来を連れて馳せ参じ、同勢の久下氏からの援軍や、長安寺、大乗寺の僧徒も参加したが、夜明けと共に始まった戦いも、午前10時頃には終結していた。
明智の大軍の前には虫けらのような小さな城であったが、八上の波多野氏を助ける氷上の波多野一族や、勇猛を馳せた氷上郡黒井城主赤井悪右衛門直正の後裔(この前年に直正は病死している)を牽制する為には、八上と氷上の間にある金山を押さえる必要があった。しかし金山への道には大山の中澤城があり、波多野の旗下大名として古山陰街道の要所を押さえていた。金山へ到るにはどうしても大山城の中澤を叩く必要があった。
菩提寺の長安寺、高蔵寺の僧徒や久下氏からの援軍も含め、五〇人ばかりの籠城では到底勝ち目はないものの、一戦を交えない訳には行かなかった。刀や槍の戦いに対しては堅固な筈の大山城、別名出合(デアイ)の城、出谷(イデヤ)、出屋(イデヤ)城も、明智の近代兵器に対しては全く無防備であり、川の対岸より火薬を使った火矢を仕掛られ、若き藤堂与吉高虎に一番乗りをされて高名を許し、350年に亘る小領主的大名としての総てが滅んだ。
城主の叔父が波多野氏八上城の篭城に参加したとも伝えるが、その関係を明らかすることは出来ない。
左衛門尉信明譲状
譲渡所領事
上野国多胡庄今泉田在家事丹波国遊楽庄西村地頭職并安信名事
同国大山庄内清徳名等事右所領者、信明相伝当知行無子細地也。
然而今泉村遊楽庄西村安信者、当御代相副安堵御下分、任故入道言信祖高信実限永代譲渡処也。
次大山庄之清徳名者、中澤源内左衛門入道寿正相副譲状譲渡者也。
於御公事己下者、可致其沙汰者也。
仍、為後日譲渡状、如件。
明徳元年 庚午歳 六月五日 左衛門尉信明(花押)
譲渡 所領事
一、上野国多胡庄内今泉田在家事 御判安堵書副也
一、丹波国遊楽庄西村地頭職并安延名事
一、同国大山庄内清徳名等事 大御所相副安堵御判也
一、同国大山庄内一分地頭石積并重久名包光半名等 中澤七郎左衛門入道跡買徳相伝田畠等事
一、武蔵国中澤郷内和田村彦三郎入道在家同田壱町同名等事
一、讃岐国多配郷内うなさかのやしろの事
右、所領者、信明相伝当知行無子細地也。而今泉村遊楽庄西村安延者、当御代相副安堵状御下文、任故入道言信祖高、次大山庄之内清徳名、重久名、包光半名、石積者、武蔵国中澤郷内和田村、讃岐国多配郷内者、中澤七郎左衛門入道同源内さ衛門入道寿正相副状譲状譲渡弾正信実之処也。永代子々孫々可知行者也。
仍、譲渡如件。
明徳元年 庚午歳八月三日 壱岐守信明(花押)
四郎左衛門尉道忍譲状
譲渡所領事
一、上野国多胡庄今泉田畠在家等事
一、丹波国遊楽庄西村地頭職并安延名等事
一、同国大山庄石積并勢得重久包光名等事
一、同国弥勒寺別院寺村里外田畠山林等事
一、同国三井庄助安名田畠山林等事</FONT>
一、武蔵国中澤郷内和田村藤三郎入道有宗同田壱町同事
一、讃岐国多配郷内うなさかのやしろの事
右、所支証等相副多期弥七本長譲状、如件。
永正四年六月十二日 四郎左衛門尉 道忍(花押)
ここに記載した譲り状は、大山地頭の大きな分系と推察される中澤左衛門尉(壱岐守)信明と、その子孫である四郎左衛門尉道忍が書き残したもので、大山に伝わる貴重な地頭方の史料である。
本系がどれだけの所領を知行していたのかは不明であるが、同勢の久下氏とは鎌倉開府以前より室町後期まで「久下、中澤の一族」と呼ばれる程の緊密な関係を続けてきた事から、久下氏が現在に伝える多数の感状や安堵状を基に、所領の増減をある程度推察する事は可能である。しかし、それはあくまで推論の域を出ないものであり、残念ながら場所を特定することは出来ない。
全盛期の久下氏は丹波だけではなく、泉や飛騨にも所領を得て、その数は20カ所を超えていた。氷上郡は荻野氏と半分づつ支配していたようであるので、大山中澤、別院中澤氏もほぼ同様の所領を得ていたのではないだろうか。丹波篠村での旗揚げ、尊氏親子を3度も丹波に庇護したこと、等々の功績により、久下氏、荻野氏は丹波の守護代になっており、中澤氏は幕府の奉行人としてその功績を報いられた。
中世の大山庄については、東寺が荘園を拓いていたことから領家方の荘官や地頭からの手紙が多数残されており、東寺文書(百合文書)の研究が進むにつれて、その概要が明らかになってきている。
大山地頭として赴任した中澤一族の動向もその中に多数現れ、鎌倉幕府の御家人であった関東武士がどのようにして大山に根付いて行ったかを知ることが出来る。
学者の論文も多数発表されているので、興味を持たれる方がおられれば、時代の流れを勘案しながら大山地頭の動きを見て行かれると、結構面白いものがある。
足利尊氏が丹波の篠村で反幕の旗上げをした事によって丹波の武士団は大きく動揺をうけ、尊氏に就く者、反する者と去就様々であったが、この丹波国桑田郡篠村の場所が、中澤一族にとっては運命を左右する極めて重要な意味を含んでいたのである。
中澤氏の拠点である丹波国多紀郡大山庄と都を行き来する為には、必ず篠村を通ってゆかねばならないこと。また、別院庄の分家が支配したと思われ、現在中澤の名を持ち越している方が沢山おられる亀岡市山本と馬堀は、篠村と1km程し離れていない隣合わせの場所にあること。
更に、篠村の中に「中澤」と呼ばれていた地域があった事(現在も中澤の地名が残っている)が判明しているので、大山庄、別院庄の中澤一族は篠村の一部をも支配して一族がそこに居住しており、足利の一門と常に友好な関係を保っていたであろう事が容易に推察される。
後醍醐天皇が隠岐の配所から脱出し、船上山から全国の武士に宮方への参戦を呼びかけたが、その密勅は当然丹波一円に届いていた。
氷上郡の荻野氏は、志宇知等氷上郡の武士団を集め、、丹波国氷上郡高山寺に構えて六波羅と対峙した。
当然の久下、中澤へも呼びかけがあったであろうが、それに合うせず、尊氏の旗揚げに参加したのは、頼朝の旗揚げより連綿と続いてきた源氏直属の武士団として当然の帰結であった。
久下一族は頼朝より許された「一番」の旗印を靡かせ、尊氏の篠村での旗揚げに真っ先に参加している事から、同勢の関係にある中澤一族も当然行動を共にしていたものと思われる。
私は最近まで久下氏と共に、もしくは久下氏が主となって中澤も共に参加したと考えていたのであるが、中澤一族はかねてより足利氏と緊密な関係があったのではないかと推察出来る事から、中澤の呼びかけに久下氏が応えて挙兵した可能性の方が高いように思える。
鎌倉末期に基員、直基は六波羅の評定衆や引付衆と烏帽子親や姻戚関係があったことが判っている事から、当時中澤氏は六波羅探題で何らかの役職につき、都にも館を構えて活動の拠点をもっていたようである。中澤氏は六孫王の館に仕えたとの伝承もある。
[丹波国宮田庄雑掌言上案]
近衛家文書
正和5年の書状、月日は記入されていない。
・・・・前略・・・事非直基口入、直基自3月10日至19日在京之条、常陸前司刑部大夫入道・斉藤左衛門大夫・飯尾兵衛大夫・宗像新左衛門尉・雅楽左近将監存知。
・・・・中略・・・4番引付為斉藤内兵衛入道唯浄奉行御沙汰之処、云刑部大輔入道、云唯浄等、引級尊蓮(中澤三郎入道尊蓮・三郎左衛門尉基員)之間、申立越訴畢。
直基(中澤新左衛門尉--基員の嫡子)一躰同心之条顕然也。飯尾兵衛大夫者、直基沙汰代官組四郎(直基従父兄弟)伯母婿也。雅楽左近将監亦組四郎従父兄弟也。直基於国致大袋悪行、痛国之御糾明、以烏帽子親基任(斎藤)、号証人・・・後略・・・・
この訴状により、中澤、斎藤、飯尾、雅楽、の血縁関係が理解でき、宗像氏との関係も深かったようである。
足利尊氏は六波羅の高官として都に居住しており、都での経済基盤を支えていたのは関東の足利庄や三河からの年貢だけではなく、篠村を含む丹波の領地から揚がる年貢が大きな役割を果たしていた。
太平記によれば、久下時重は尊氏の旗上げに250騎を率いて一番に駆けつけたとの事であるが、篠村から久下氏が支配した丹波国氷上郡栗作郷の谷川迄は相当な距離があり、早馬で駆け抜けたとしても丸1日は十分かかる距離である。
250騎の武士という事であれば、それぞれが3〜4人の下人をつれているであろうし、総勢1000人前後の軍団を兵糧も含めてそんなに早く篠村に連れてゆく事は到底不可能である。
篠村での旗揚げから出陣まで約10日間であったことを考えると、久下氏は鎌倉開府以前より中澤とは同勢の間柄であった事から、尊氏の旗上げを前もって中澤から聞き及んでおり、日時を示し合わせて篠村の近くで待機していたのではないだろうか。250騎を250人と読み替えたとしても相当な軍団であり、真っ先に駆けつけることは困難であろう。
太平記の記述によれば、尊氏が久下氏の事を前もって知っていたとはとても思えないが、高師直が久下氏について尊氏に詳しく説明している事から、中澤氏は尊氏の旗揚げに計画段階から参画し、上杉氏と共に丹波侍の呼応に深く拘わっていたのではないかと推察されるのである。そうでなければ高師直が久下氏のことをそんなに詳しく知っていることは極めて不自然である。
頼朝より一番の紋章を与えられている久下氏が一番に馳せ参じることによって、岩松経家、結城宗広、小笠原貞家、島津貞久ら尊氏が軍勢催促状を発した武将に足利氏が源氏の頭領であることを認識させると共に、反幕の吉例に利用しようとした上杉、細川等尊氏のブレーンによる作為が感じられる。
足利氏の家紋である丸の内に二引両の紋を賜り紋として伝えていることや、後日尊氏に反していた直義から中澤は恩賞を受けたとの伝承があるので、直義、高師直、上杉氏達とと中澤は関係が深かったのであろう。
室町時代を通じて、右筆方奉行人の中に途切れなく中澤氏の名前を見ることが出来る。
この中澤氏は大山もしくは別院庄の中澤氏であることは、ほぼ間違いない処であり、鎌倉開府前後から続く足利と中澤一族の関係を伝えるものであろう。明徳の乱や応仁の乱に翻弄されながらも、中澤一族は丹波大山城主としてその勢力を保持し続け、明智の丹波攻略によって滅びるまで、350年にわたり大山、別院が連携して小領主的大名としてその勢力を保ち続けた。
江戸期に書かれたものによると、大山中澤氏は都合4万石を統治したとのことであるが、これは何を根拠にしていたのか明らかでなく、とても信用出来ないと最近まで思ってきた。
江戸期における大山村の石高は約2600石であるが、近傍の味間や今田、吹(不木)、氷上郡三井庄にも領地があったことが確認されており、また、分家が支配する別院庄は大山より遥かに大きく、地頭として入部以降領地の拡大に務め、今の京都府亀岡市周辺にまでかなり広範囲に拡大していた事が確認されている。 久下氏の所領が20カ所を超えていたことを考えると、中澤氏もほぼ同様の所領を得ていたと推察されるので、1所領平均2000石としても20カ所で4万石になる。本領の武蔵国那珂郡中澤郷、上野国多胡庄や讃岐国うなさかの社の領地を含めると、丹波の中澤一族が支配した領地は、判明しているだけで大まかな推定をすれば1万5千石前後、不明なものを推定すると、4万石というのもあながち誇張が過ぎたとは言い切れないかもしれない。
中澤一族が度重なる戦闘によって所領を増していったであろう事は、久下氏が所持しておられる感状や安堵状等の文書によって推定出来るのであるが、その所領は全国に分散しており、財力や武力を一ヶ所に集約して勢力を伸ばす事は出来ず、室町幕府の官僚として活躍していたとしても、所詮小領主的大名の域から抜け出すことは出来なかった。
信濃国伊那郡中澤郷(長野県駒ヶ根市中澤)に諏訪神(みわ)族の中澤氏があり、鎌倉幕府のご家人になっているが、この一族は諏訪氏の別れであり、大山中澤氏とは明らかにその出自が異なっている。
出雲国牛尾庄に移住し、戦国大名尼子氏の家老として10万石の所領を持った牛尾氏は、この信濃中澤氏からわかれた一族である。
建武の新政と荘園地頭
鎌倉幕府が滅び南北朝内乱へと社会情勢は混迷を深めるなか、丹波国大山庄も大きな影響を受けることなった。
鎌倉幕府によって保証されてきた大山庄の地頭職が新政府によって東寺に寄進され、承久の乱の勲功の賞として補任されたご家人の中澤一族は、新政権の樹立に多大の功績があったにも拘らず、突然その法的根拠を失ったのである。
元弘3年7月7日には丹波国大山荘の地頭が濫妨するので、その妨をとどめて所務を全うするようにとの綸旨が東寺供僧所あてに発せられ、同年9月1日には丹波国大山庄、備中国新見庄、若狭国太良庄の地頭職が永代東寺に寄せられた。
形式的には地頭中澤一族は大山庄から追い払われることになったが、この動乱期における大山庄の支配権は既に地頭中澤一族のもとにあり、建武新政府の施策はあらゆる処で勢力を延ばしていた在地武士団の猛反発にあい、もはや一片の綸旨や院宣、新政府の沙汰で解決出来るような状態ではなかった。
元弘3年9月24日には、大山庄地頭以下輩の濫妨について、道意僧正状によって雑掌を荘家に沙汰し据えるようにと綸旨が再度下され、建武元年7月9日、新政権の雑訴決断所は牒を発して、東寺の訴えを認め、大山庄先地頭以下の輩の濫妨を止めている。
さらに、建武3年12月8日には院宣が出され、正平6年9月28日には後村上天皇の綸旨が東寺に地頭職を知行するように令し、延分元年2月8日には後光厳天皇の綸旨が知行を供僧に対して保証している。
このように、南北朝内乱の始めの20年あまりの間に、南朝からも北朝からも大山庄の地頭職は東寺に属するとされ、中澤一族は資格を失った「前地頭」と認定されてしまうことになった。
この動乱の中で大山、別院の中澤一族は、実力でもってその地位を守り通した。
こうした院宣、綸旨が何度も出されているのが、新政府の命令が社会の実体にそぐわず、その命令を実行せしめる為の手足になるべき武士団から全く無視されていた実体を如実に物語っている。
内乱初期の混乱が終わろうとしていた文和4年の算用状によると、「地頭又五郎アウリャウ(押領)」、「地頭イラン(違乱)ニヨテ不サク(作)」、「地頭田中五郎左衛門押領」、「不サク、但、トウラム(動乱)ニヨテキン(近)ネンシキ、又地頭六郎二郎以下ノイラムナリ」という文言が出てくる。
田中というのは地頭中澤の一族であり、地頭職は東寺へ寄進されても、その実体をかえることは新政府の権威を持ってしても不可能な状態にあった。
丹波の在地武士団は互いに連携しあって領地を支配しており、中澤の武士団は建武の新政と共に丹波国に入部した守護碓井盛景の館を同勢の久下一族や波伯々部(はうかべ)一族と一緒になって襲撃し、摂津国に追い払ってしまい、自分達にとっ都合の良い北条一門の者を守護に据えるという、驚くような実力行使を行っている。
「閑話休題」
丹波の伝承書によると、鎌倉末期から室町後期にかけて丹波の4強は、久下、中澤、波伯々部、荻野であったと伝え、また、室町幕府奉行人として活躍した中澤備後守光俊(豊前守、掃部大夫)の子孫と伝える丹波国氷上郡黒井の中澤氏位牌は、丹波国に「光党」があった事を伝えている。
久下氏は丹波国氷上郡栗作郷谷川を拠点とする地頭で、中澤とは鎌倉開府前から同勢の関係にあり、共に西遷してきた御家人である。
室町期には「久下、中澤の一族」と呼ばれ、明徳年間には多くの所領を得て、丹波国内において大きな力を保持していた。
波伯々部は多紀郡波伯々部保の土豪で、大山庄から都への街道添いに拠点があった。
荻野は氷上郡朝日を本拠とする地頭で、氷上郡だけでなく但馬方面にも勢力を伸ばし、尊氏の旗上げには反抗したが後に尊氏に与している。
室町後期になって、荻野の一族である氷上郡黒井城主赤井悪右衛門直正が但馬の山名の一族を攻めた事から、山名は慌てて織田信長に助けを求めた。
信長はそれをきっかけとして自ら丹波攻略に出陣しようとしたが、明智がそれを止めて自ら丹波に向かうことになった。これが明智の丹波攻めの始めである。赤井直正の勇猛は広く伝えられており、中澤治部大夫は赤井の軍師であったとも伝えている。
この丹波の4強と伝える武士団は、明智による丹波攻めの時も連携して明智軍を丹波の奥地に誘い込み、一斉に猛反撃を加えて地理に不案内な明智の大軍を壊滅状態にまで大敗させ、一度は明智を討ち取る寸前まで追い込んだが、かうじて愛宕山から逃げられてしまい、後の天正年間に大軍を率いて再度来襲した光秀にすべて滅ぼされている。
これらの武士団は、中澤氏の大山城から見ると、北の氷上郡朝日に荻野氏の朝日城、荻野の一族である赤井氏の黒井城があり、西の谷川には久下氏の玉巻城があった。また、東の波伯々部保には波伯々部氏の城があり、いづれへも馬で走れば3時間も掛からずに行ける距離にある。
また、分家地頭が支配する桑田郡別院庄とも半日強の距離である。
翻って、荘園領主の東寺はもはや手も足も出ない状態にあり、荘園からの収入を得る為には、またもや資格を失ったはずの前地頭に頼る他なかった。
この後東寺領大山庄の代官として僧や在地の武士が任命されるが、長くは続かず、結局は中澤一族の者を代官に起用することが多くなってくるのである。
中澤一族は鎌倉、室町を通じて六波羅の官僚として活躍していたのであり、新政権にとっても重要な地位を占めていた筈である。その政権の中枢部にいる新政権の功労者に対して、一族の生活基盤である地頭職を解任し、荘園領主に返還せよと命ずることは矛盾も甚だしく、到底承伏出来るものでは無かった。
綸旨や院宣、沙汰を出すだけで諸国がその指示に従うであろうと、政権に復帰して浮かれた公家達が卓上の空論で権力を手中に収めようとした実体が、如実に現れている。
参考文献
中澤家誌 故中澤栄一氏著 昭和44年脱稿未発表論文
大山落城 故中澤栄一氏著 昭和55年脱稿未発表論文
大山村史(本編、資料編) 塙書房 丹南町大山財産区発行 編集者 宮川 満
駒ヶ根市史 長野県駒ヶ根市発行
京都の歴史 学藝書林
多紀郡史考
丹波史年表 松井挙堂
人物で見る日本荘園史 東京堂出版
他に大学の図書館で参考文献を相当読んだが、主なものだけ記載した。
1996/09/13 小次郎