関東下知状

楽-1-8


東寺領丹波大山庄雑掌与地頭中澤三郎左衛門尉基員同六郎宣基七郎基村等争論条々

一、請所事
右、六波羅中心訴陳状具書子細雖多、所詮自仁治三年至文永二年雑掌致庄務之条、百姓散用之状顕然也。而地頭昇蓮(基員亡父)相語一代之雑掌所請申也。為私請所之上者、被顛倒之、且任旧例被避付地頭於寺家歟。将又可被中分下地由。雑掌訴申之処、如基員陳状者、当庄者為承久勲功之賞、中澤小二郎左衛門尉基政拝領以降地頭三代無相違。且可為請所之由、六波羅仁治二年御下知明白也。轍難被顛倒云々。爰如基員所進六波羅仁治二年五月二九日下知状者、東寺領丹波国大山庄事、長者僧正御坊御教書、疑懈怠可令勤仕年貢以下寺役之由、令請申之間止其節畢云々。和与之儀尤公平歟。且任請文之旨、両方無違乱可令致其沙汰云々者。仁治下知以後為請所経年序畢。被成敗難被改替之間、可令停止雑掌濫訴□。
二、請料員数事
以下 略
弘安十年一二月十日

前武蔵守平朝臣(北条 宣時) 花押
相模守平朝臣(北条 貞時) 花押


天正年間に明智に抗して落城した中澤氏の居城は炎上し、鎌倉開府前後から伝えてきた多くの文書は焼失してしまった。江戸期に入って篠山藩は丹波誌を編纂したが、大山には東寺の荘園があったと、わずか18文字でしか表現していない。
大正時代になって、東寺百合文書の研究が始まるにつれ、その中に千数百通にも及ぶ大山庄関連の文書が発見され、大山庄は途端に史学者の脚光を浴びるようになった。
この関東下知状は、今まで伝承でしかなく、丹波では土豪長澤としてでしか認められていなかった大山地頭が、中澤氏であることを如実に証明しているものである。
また、御家人中澤左衛門尉基政の名を伝えている処に大きな意味がある。基政は吾妻鏡によって、幕府直属の御家人であったことが明らかになっており、明徳元年に壱岐守信明が残した譲り状に記載する「武蔵国中澤郷」との繋がりを証明している。
丹波では大山城主を中澤氏であるとかたくなに伝えてきた家はわずか3軒しかなく、殆どの家が太平記、明徳記、丹波誌等により、「長澤」であるのが正しく、中澤氏は長澤の分家であると言われ続けて来た。
この下知状他、東寺に残されている多くの文書の中に、長澤氏の名前はどこにも見当たらない。長澤氏と伝えているのはすべて「伝記物」に限られているのである。
もしこの下知状が紛失されていたら、大山地頭中澤氏は、永遠に長澤として語られていたであろう。
地頭中澤の末に繋がる者として、感激に堪えない。

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