(5) 余 談

◎明智軍記

 ここに、中澤宗家は大山城の領主から実力をもって完全に放逐せられた。

 350年前関東秩父に出身した地主武士が、鎌倉家人となり、承久の乱に従った縁故で、たまたま丹波の一隅に派せられて地頭となったが、明暗消長の上、変遷の波を超えて、中世の末に大山庄の領主に達していた。
 しかし信長、秀吉による戦国統一における数百の事例のごとく、一朝にして遂にその地位の抹殺に会ったのであった。
 出屋城攻撃の事後処理はどうであったろうか。ほとんど伝えられるところは無い。一族中澤氏帯刀の家の処理から察するところ、攻撃目的の要は城主の戦力を叩くことであり、“耕地”即ち民生の安定に努めて、取りあえず現状維持を最としたのではあるまいか。 明智攻めは社寺の滅却では至るところで悪評を招いているが、事に口丹波では著しい。

 そして光秀にかわいそうなのは、八上開城の時、その条件として秀治ら幹部と交換で光秀の母或は叔母を出したが、秀治等が安土で信長によって斬られた為、この人質も亦地元で斬ったとする伝承である。これを、光秀が功名の為のおしつめられた手段ともし、又光秀の信長に対する恨みのたねともするものだったが、この時の秀治等の出城は、城内で和議派の為に出されたものであって、光秀が計略したものではないのである。光秀と雖もこの期に母親を出すほどに焦ってはいなかった筈であり、この一挿話は興味本位の一つのつくり話に過ぎないと思われる。光秀はかく酷薄の如く言われながら、八上高城へ秘かに糧米を入れた者に情けを汲んで処罰をしていない話も伝えられ、殊に福知山では霊神様として一社に祀られている。福知山は一時羽柴の直臣がいたところでもあるのに。

 光秀は丹波諸城を陥し、それを所領としたが、その期間が短かった故か、又、丹波攻めの後の信長に逐われてか、治政として遺したところは明かでない。しかし福知山の例に見るまでもなく、著しい弾圧治民策はとらなかったのであろうか。後年の反逆は丹波攻めの経過では考えられぬ事であり(その予徴がないということ)、徳川儒教後に至って大損をしておる事であろう。

 明智反逆論は今も尚しばしば話題に上がるが、かなり同情者のある事は興味の深いところである。ここにその一つ、徳川時代の戦記物、作者不明、元禄の頃と推定せられるものがある。「明智軍記」といい、この軍記はかなり読まれた物らしく、郡内の所蔵も2部以上は確かであり、家蔵の拾玉集はこれから拾ったものであるらしい。

 記事の内容は高柳本などに参照せられながら、よく一致しない。また、作者の居所を推定させるような記事内容でも無い。現地踏査もしていないのではないかと思われる書きなぐりである。しかし全編を通じて光秀に対して全く同情的である。とても時期として江戸中期のものとは思われぬ程である。
 その一つの手法として中澤一族の去就をことさらに組み入れている事である。丹波の長澤を全くとらず、中澤一色とした上で、赤井の軍師「中澤治部大夫」を上せた外、光秀に就いた、又は、反した四人の侍大将を出し、中澤一族がよく光秀に殉じたことを言って、光秀の人を表そうとしている事である。 

◎中澤越後守

光秀が丹波に手を入れる以前から丹波に著名で、光秀入丹の際にも服せず、光秀の最後の黒井八幡山戦に赤井方として出ておる。

◎中澤豊後守造酒介智綱 

光秀入丹後いち早く光秀に服し、以後宗徒に加えられ山崎戦には旗本に加わるが、勝龍寺戦で最後を遂げることになっている。

◎中澤四郎左衛門

坂本の落城には宗徒として残るが、左馬介光春から無理に落去せしめられる。

◎中澤將監

光秀の鬼嶽攻めで、城方として討死。

中澤治部大夫は永禄の松永文書に出ているものであり、豊後守智綱の綱の字は口丹波中澤の通名である事が面白い。この軍記では光秀が八上と和議の為に叔母を人質に出したことには全く触れていない。八上の一方的降伏であった事から当然であるが、人として光秀の見方にも係わる事である。
 軍記は光秀の経過は高柳本と一致していないし、どのくらい地理に通じていたかも分からない。又、長澤を除けて中澤のみにしておる事は、口丹波事情に通じていなかった事かも知れないし、東西中澤のあった事を確かにしているかどうか分からないが、史料的人名を用いている事がいぶかしい。とまれ、全編を通じて真面目な光秀方の記述である事は覆うべくもなく、一種の野心作と言う事が出来る。

適々書き留めていたので有名な光秀の愛宕山西坊での連歌興行の発句を出しておく。(信長公記)

ときは今 天が下(知)なる 五月哉 光
水上まさる 庭のまつ山   西坊
花落る 流の末を 関とめて    紹巴

近頃光秀を蘇らせた小説があるらしいが、ここに司馬遼太郎による(新史太閤記)光秀の墓を載せておく。

光秀=かや(曾呂利新左衛門妹)  
玄琳 大嶺院南國 梵珪和尚
明叟玄智大禅定門 妙心寺大嶺院
泉州助松村 蓮正寺内 助松庵
後 貝塚市鳥羽大日庵(岸和田本覚寺)
本覚寺 鳳岳院殿輝雲道秀大禅定門 (慶長4年)

◎丹波の誘込戦、又は黒井呼込戦

 どの位迄が本当だか分からないが、語り草に申し継がれて来たらしく、明智謀略戦とこれに対応した地侍のありかた、八上の統制のしかたなど、察せられぬ事は無い。そして、言伝えが如何に多様になるものかも興味深い。

(1)籾井家日記 

天正4年 天正3年7月のこと 氷上郡波多野の発議で、黒井の赤井のみは和議に応ぜぬ故、これを攻めたしとして、そして八上から案内せんとて、光秀を黒井に誘導し、一転反撃に移った。光秀軍は土地不案内で散々になり、幹部殆んど全滅、光秀は並河が案内して辛うじて愛宕裏より逃げた。数多の光秀部下の内「堀部兵太夫」と言うは芦名が討った云々。
・野々口政太郎氏解説 秀治八上に諸将と会し明智を黒井に誘致して撃滅せんと計り、光秀天正3年9月13日氷上柏原に着したが、19日、丹波勢に三方より包囲され、農夫に変装して愛宕山北側より近江坂本に逃げた。時に天正3年9月21日の事。
 一書に「天正三年光秀兵三千を率い桂川を渡る。亀山城主内藤忠行昨年死し、族人老ノ坂に降を乞う。光秀戦わずして亀山城を略す。国人、並河易家、四方田政孝、荻野、波々伯部、尾石、中澤、酒井、加治、相ついで降る。
久下釈迦牟尼仏、鬼嶽高見城に入る。過戸城福井貞政服せず。」 

(2)大山記

金山城の項の内に、光秀丹後を攻めての帰途黒井赤井を攻めた。八上はこれを黒井と連絡の上明智軍に従って出兵し、明智の攻撃に参加したが、八上の動静危うしと察知して退却を始めた。秀治は八上に帰り、畑、中澤、細見等を呼び明智の退路を討たせた。鼓峠に向かった光秀は既に去った後であったが、殿軍の明智兵太を黒井勢と共に散々に討った。 いま栗柄峠には明智兵太の験の塔がある。明智は八上を囲んで兵糧攻めに出たが、金山築城を思い立った。(八上落城時を天正4年と誤る)
書き上げ、名所之覚にはこの項なし。

(3)明智軍記

天正7年6月4日 八上秀治降伏後、光秀黒井攻めに金山に本陣をおいたことあ
り。大雪の為に惨敗して篠山道を亀山に退いた。
(4)丹波興敗記
天正2年4月光秀赤井を囲むが八上の向背を恐れ、亀山に引く。その途中で殿軍の堀部兵太の事あり。

(5)多紀郷土史考

天正3年12月13日 光秀入丹、去る7月黒井交戦の弔い合戦に、又、天正6年3月光秀、藤孝、長秀、大山金山を攻め落とし鼓峠より北丹に入る時、畑牛之丞、細見に攻められ単身逃走し、この時堀部兵太が身代りになって、ここで落命した。その首を峠の下にある草山側の欅の木に釣った。首掛け欅といい、葬って兵太塚と言った。明治に大木は切られ、塚も分からなくなった。

◎ 荻野直正 丹波戦国史(下小倉村誌録)

赤井才丸として享録年12月18日新郷後屋城に生まれる。その時船城郷(春日町)朝日城主荻野の養子となる。城主となり叔父、春日部庄黒井城主荻野伊予守秋清を殺して黒井城主となり荻野悪右衛門清正と名乗る。(丹波志、寛政重修諸家譜、赤井祖先明細書)

◎ 八上 波多野

信長が上洛して7年目に取り掛かった丹波の波多野を落とすのに足掛け5年を要し、中国攻めの進みを遅らせたとも言える。この波多野の本拠は郡内八上であり、別篇でも挙げたいところだが、とてもまとまりそうにもなく、よく読んでもいないがこの一篇の一項を借りることとする。
 しかし、波多野氏を書くのにどうしたら良いのかに随分迷ったが、全面記述は惜しいがやめて、問題点と言ったものだけをここに拾う事とした。
 元郡内にあった兵庫農大教授で今同志社の岡光夫教授は、在丹中地元資史料の渉猟に熱心で大山庄東寺文書を取り合わせ、「封建村落の研究」その他の著書の基本を捕捉せられたが、史観が貫かれていて、郷土の本当の史学の始まりと言っていいものである。こに著の中で当然戦国大名波多野の解明が一般史料を併せて行われていて詳しいものがある。篠山在住の嵐瑞澂氏も折りに触れて独特の史料を発表しておられる。
 地元には近世の戦記物としての籾井家日記が著名であり、その公刊の解説は野々口政太郎氏によってよくなされているが、この記から史実の把握は岡氏等によっても至難であったらしい。新しい多紀郷土史考は何分郷土物だけに、必ずしも史的立場で書かれてはいない事が惜しまれる。

(A)波多野氏 出自

籾井家日記では波多野氏は相模國餘綾郡波多野郷内田原(田原藤太秀郷の出身地)としておるが、西岡「庄園史の研究」では、尊卑分脈で秀郷流であるとし、吾妻鏡その他で、次郎義通、光重、忠隆、等名を関東に拾い、相模國波多野庄田原に寺を祀っている。越前の地頭に波多野の名があるが、籾井家日記では八上の波多野氏は因幡國八上郡日下部高手城の出であるとし、山名守護の配下にあったものであろう。
 篠山渋谷家文書では、山名を頼って関東より因幡に下り、山名客分として、知頭、八上2郡を領し八上に居住したと言う。嵐氏は最近波多野の根拠は島根県であった史料を得たと言っている。郡の八上はこの因幡八上をとったものと言われているが、永正12年(1515)波多野氏が八上に城を築くより遥か遠く、文安期(1450頃)には、大山庄で八上への私、史料その他の文書を記録しており、八上には郡使、難波、辻氏が居り、その前には平野氏がいた事が分かり、郡の八上は波多野氏の命名でないことが分かる。 しかし、問題は波多野氏が八上築城(1515)の30年前文明16年(1486)に波多野清秀が郡代になっており、この波多野氏が郡代に就いた郡内外の根拠由来が必ずしも明らかでない事である。波多野氏はいつ、何故丹波に移って如何にして根拠を占め得たのか。

(B)波多野氏の丹波系図

籾井家日記解題で野々口氏が整理した丹波系図は次の通りである。
ブラウザーで正しく表示出来ない為、省略

(C)八上波多野氏の郡内根拠

岡氏によると、八上波多野氏が荘園侵略の為の第一歩を踏み出すのは、永正5年(1508)の大山庄に始まるとあるが、これより先、文明16年(1484)に元細川被官から出身した丹波守護代上原(物部)賢家が波多野孫右衛門尉(清秀)に大芋荘を絵所土佐氏に返付する様にとの奉書を出し、翌年遵行せしめている。この清秀は永正年(1507)には郡代と出ておるから、既に永正以前文明から郡代であった事が推定せられ、恰かもこの頃内藤に替わって丹波守護代に上がった上原氏にでも取り入って郡代の地位を得たのか、それにしても郡内に何程かの根拠を持ってはいなかったのか。岡氏の渉猟に依っても波多野の永正迄の所依は船井郡西本梅上村庄の外は無いとのことであるが、果して然るか。
 丹波志の言うところでは、波多野は山名宗全に従って山陰より上洛し、八木の内藤を倒して多紀氷上郡に入ったとあるが、波多野伝承に本庄氏を称する事から、雲部本庄或は村雲辺に何等かの手がかりを持っていたのであろうか。而かもこの清秀等は氷上の系だと言われていて、八上との関係は詳らかで無い。波多野氏は永正、文明以前の郡内根拠は郡代だけであったのか。又、これはどうして獲られたのか。これは依然として謎と言う事が出来る。
(威神院記 正平5[1350] 波多野氏、不木(吹)で久下弾正と戦う)

(D)三好の高城占領

永正以後の波多野氏の急膨張は岡氏に依って、地元史料を加え、詳らかにせられてあり、その一つは高國に巧みに取り入り、且つ運よく高國を去る事であるが、その大膨張の途中、不覚にも一時八上城が三好の手に渡るのである。これを岡氏は、高國の養子、氏綱を擁した三好長慶は天文21年(1552)と、その翌年三好に代わって松永久秀が、又、弘治3年(1557)長慶が八上を攻めたが、ついに落ちなかったとしているが、これは、この長慶攻め(9月27日)以前の5月27日に宮田戦での軍功を波多野元秀から酒井三郎四郎に出しておる地元文書から考えての事であろう。
しかし、波多野氏に親しい能勢文書には松永が八上を破り、城に松永孫六郎をおいたとしており、孫六郎が八上に居した証跡がある事から、高城開城は確かである事がわかる。
 (1)篠山妙福寺本尊は松永孫六郎の献じたものである。
 (2)永禄3年 松永孫六郎(蓬雲軒)は、中澤治部大夫に対して、久下左近の帰来に際し土地の斡旋をするよう勧めている文書(丹波志ほか、久下 文書)のある事。
これから、波多野秀治の即位御料奉献は毛利家に奇寓の時でなければならぬ事となる。

(E)船井郡小山城主 長澤義遠

岡氏は明智攻略以前の八上配下の郡内小領主(地侍)につき、地元史料から詳しく掲げられておられ、大山城主としては中澤孫十郎重基(大山記)をとっておられるが、八上配下、七頭七組、先鋒隊の七頭(外様大名)には、籾井家日記により、船井郡小山城主長澤義遠をあげている。しかし長澤義遠は大山城主として別に一般に伝えられたものであり、小山は園部にあるが、園部には荒木氏が居て重複して合わず、長澤、中澤交雑の苦心の処理と思われる。
以上の数点は地元の学者として最も詳しく波多野氏を追求せられた岡光夫氏の所論中、多少の問題を指摘したものである。かつてこれらの所説を借用し、全波多野氏を見たいと思っていたが、到底及ばぬ事を知って止めた次第である。未だ、例えば、岡氏の地元史料の採用で、波多野氏初期、永正の頃の高國を背景とした、北河内での小戦闘の発生と処理についても、大山庄代官中澤元綱の戦死は必ずしも在地大山ではなく、又、波多野氏は大山を攻めたものでなかった事が推定出来るのである。
心残り乍ら以上で波多野氏を終わる。