(1) 城  址

城は名の通り大山川が本流(篠山川、大芋(おくも)川、久下川)との合流箇所付近、出合に在る。大山川は本流に河底を合わせた為に、河流の侵食が著しく、河谷の両岸に複雑な段丘を作ったが、出合の城はこの河段丘の一角を利用した珍しい平地城である。
篠山、谷川間所謂川代道がここに出合橋を架けているが、この橋付近から見渡す大山谷の象徴の双子山を背景にした城地が最も大観を得たもので、今では樹林繁茂の為、付近の高地からも俯瞰の便が無い。近頃誰やらが城ノ谷の地字を創めたようである。
城址は三方を地溝と大山川に囲まれた極めて分かりやすい区域で、土地台帳地図では、北野村、大山下村のそれぞれに城坪があるが、私が調べた時何故か残念乍ら両図がよくかみ合わなかった。それでやむなく空中写真からとりあえずS:1/6,700という妙な縮尺の平面図を作ってみたのが別図である。

動かない三方の外周と残っている堀と土塁の一部に囲まれている中の地字、登城畑、八幡坂、本丸等から城内の区画構成を想像してしてみる訳であるが、先ず安永、明和の丹波志に拠って見ねばならぬ。ごく大ざっばに落城后既に200年頃に当たるが、丹波志は当時実地踏査をして“今 本及二三郭存、然不全”とし、“貞享記云 石壁塁ハ崩レ隍(からぼり)ハ埋リ只地形ノミ残ルト”を引用し乍ら、大山記及び貞享記の記事を対照しつつ、本、二、三丸と他二郭、外に城外の一居宅跡を寸法書きし、大手木戸、搦手、西搦手を挟んで城郭全体を想定し、当時の状況を表わそうとしている。貞享記は大山記によった事は明かであるが、こんな寸法書きが遺存したとは考えられず、或は金山の例の様に、その時(慶安3年?)に同時に藩士によって書き取られたのかも知れぬが、百余年後とすれば、地形のみ残っていたので、この地形の寸法にしろ推定や略測が多かったと思われる。大山記(貞享記)を追ってみて寸法上多少の差違があることは当然で、“私云 今此跡不知”となり“今土地ヲ見ルニ二郭の北ナリ”と推定を加え、門、井戸の跡は見当たらぬと、実状を知らせ、又、出屋の方に大山記、貞享記 に記していない土手囲いのある屋敷跡の畑の字空心といったものを捉えている。
即ち丹波志は現地に臨んで多少の差違を見乍ら、南二丸跡の痕跡を見出せず、又、門(出屋口)、井戸は分からなかったが、略両記の記述を認めた事になる。
この記述で稍々異な事は、城の外周について全くふれていない事で、城を“田間平丘の上”としながら、川や断崖、横溝等の外囲には説明を省いている。説明はないが出屋とは横溝を境とする村の字名に違いない。
依って城の外周を北側は未詳としておいて、丹波志の実査記録を現地に合わせて見る事とする。先ず現存の堀とこれに付いている土手(塁)と、これに続く畑字本丸とから本丸の区郭を仮り置きする。そして本丸を芯にして北方へ二郭があり、堀を外側にして土手がついている。本丸の南側では土手なしの堀三条がある。都合六条の堀が略東西に走って川岸と溝とに囲われた段丘の平地を五区郭に分けていることになる。そして大山記では一番北と一番南の堀を惣堀と名付け、南の惣堀は他のものの幅三間よりはるかに広い十間であったとしている。この寸法書きを実地に縮尺であてはめて見ると、単に南北方向だけでも非常に窮屈であり、川岸の侵食があって地面の狭少があるとしても本丸以南に於いて特に窮屈で、大山記の寸法が左程確かで無いと言いたくなるほどである。
なるべくこの記録に忠実に従うとして、北門なる字が明治十七年の地誌に残っており、下村から惣下村の氏神、北野大慈社への参詣道が恰もこの城域の北縁に当たっていて、この途中に北門があったかと推定せられ得る。
実は未だ試掘していないので本当の位置は確かめられていないが、この六条(一条は現存)の堀を丹波志のいうところは上記の如しとして、城の要概を見ると、次の如くではあるまいか。
本丸より北方の堀には土手がついているが、その東西両面に土手が廻されていたかどうか、殊に本丸南方に於いては本丸を含めて堀沿いの土手を欠いているが、東側にも土手が無かったのか。惣堀を特に幅広くしているが、これを上記の場所にあったとすれば、全く横堀を信頼している事になり、殊に東側に土塁又は石壁を必要としなかったのか。本丸の東は城の大手でありながら南惣堀は現在の半島状平面の根本にあり、これに架け橋があったとすれば、これより北側の横堀は要害上非常に信頼され、従って出屋口はこの半島南端に開かれていた事になる。但し、この城外の居宅跡と外に丹波志が発見した土手付きの薮地、字空心は、この出口より北寄りとは想像されるものの、いま具には確かめ難い。 
八幡坂は大手の公道であろうが邸神の名にに由来し、その上端は、南三の丸の堀の南側に通ずる筈であるが、未だ詳にしていない。厩畑が本丸の東にあるとしてあるが、この地字は対岸の崖下ともいわれるので、東か東方かは預かっておく。
井戸らしいのが今残っているが、何故丹波志が見なかったか不思議で、位置も違う。門は南惣堀にあったか、或は横溝越えにあったか。尚、諸設備が東の川向い、下村崖下にあったかに聞いているが、今更確かめ難い。他の直士の住居等も多く伝えるところが無い。
以上城跡を概観し、大山庄を対象として最もその所を得ており、交通上対外的にも最上であり、殊に要塞上自然の地形を利用しておる平地館であるが、稚拙なままにしておるところに建築時期の示唆があるように思われる。
出屋川代方面は、鹿倉の字地もあるように、恐らくは自采地の所在と察せられるが、城の北方は北野村と言われ、京都に倣って天神を祀ったといい(現在は大慈社へ合祀)、又、本丸より西北方約230米の山裾(北野村初太夫坪)に城主の祈祷寺、常(浄)楽寺址を伝える字地があり、その背後の低い山腹の、城域を見おろす位置に、狭くて今は乱されているが、大山谷中に、他には見られぬ多数の古石塔を収めている墓地がある。一般にはいわれていなかったが、謬りなく城主家の墓地であろう。この墓地については既に書いたと思うが、或は又再び別にふれる事にしよう。
ところで大山谷(大山庄といってもよい)で城といえば、この大山川の水源地に有名な金山がある。後には触れるが、しかし、金山は大山城が落ちる前にはまだ無かった城である。他に大山に城砦又は塞は無いが、一印谷(一井谷)には土地で“こやがじょう”と言っている山嶺がある。別に言伝えも無く、城でも砦でもなさそうである。大山城に近いところでは、城から遠見坂を越して、木之部に出ると、隣の板井村に山名の城がある。又、篠山川の対岸、味間の網掛西山には出屋城の長澤の城があったし(貞享記)、大沢、古市方面には、酒井氏の構が散在している筈である。又、篠山川を降って久下谷川は、久下氏の根拠で、玉巻城が谷川にあったという。久下への通路は川代の川縁が不安定であった為、むしろ北野の左谷越しが盛んに使われたらしい。寺の谷もこの道縁である。