(2) 経  歴

この城は自然地形を利用した、土居之内とも見られるが、中世末期にも山城に転換していない訳である。従って城の発祥は末期を遡る事になる。城=武備を構えた屋敷=の発祥は、その主人の領主を探らねばならぬ。
京都の東寺がここ大山地域に私領東寺大山庄の設定を官許せられた頃は、一体は本河内郷と言われた。耕地の区画や坪名等は所謂班田収授の制度の時のままに残ってはいたが、その制度は既に崩れかかっていたのであった。そして庄園創設250年後の平安末期には、その間にずいぶん激しい変動を経ながらも、本河内郷の全域以上に拡大して、大山村、又は大山保とも言われるようになり、公地を支配する郷司はいたものの、縮小してしまって大山庄とは地理的の名称となり、河内郷の名前さえ忘れかけてしまうようになる。
そして、その約120年後には所謂承久の乱で鎌倉幕府の権力が安定し、武士が天下を制圧する事となる。鎌倉の天下掌握の一政策は、私領各庄園毎に武士の地頭をおく事であった。従来の地頭と称するものとは稍々性格が異なるが、庄園に現駐し、治安と山林河川の管理や年貢の徴税進遺を任務とし、而も給与は庄園領主に負担せしめると言う、今日では稍々難解な職分をもつものであるが、要は庄園領主権の大きい制限であって、後日の紛争の発生は当然のものであった。
東寺大山庄に対して鎌倉は新補地頭として、家人、中澤小次(二)郎左衛門尉基政を任命した。中澤は土着の家ではなく、口丹波桑田郡別院村弥勒寺別院庄へも地頭として近親と共に派遣せられて西上したものであった。馬上兵杖を帯び若干の郎従を伴いて入部したものであろうが、今日郎従についてすら一向に伝えるところがない。
お隣の近衛家領宮田庄へは地頭石川氏が就任したが、庄役人の公文が近衛家を動かして、ついに石川氏を排除してしまった。この公文は承久の乱の時には宮方についたとも風評され、初代大山庄地頭中澤小次郎左衛門尉基政とは不和抗争を続けたという。
これらは近衛家文書の宮田庄関連で知られる事であるが、地元では大山全域に東寺領があったと言うことが大山記(貞享)の18文字だけであるのに、京都東寺には大山庄関係だけでも千数百通の文書があっ、大正以来次々に解読活字化され、庄園研究の好材料となって、大山庄を題材とする諸学者の論説は多数にのぼっている有様である。
この多数の東寺文書には寺側と、事件発生の際には地頭側の挙措が表出せられ、これらは必ずしも原典によらず、諸論文で知ることが出来る。但し寺側史料の豊かなのに比べ、地頭側史料は東寺外の諸家分を併せてもきわめて貧弱であるが、辛うじて若干の人名をたどる事が出来る。
入部早々の地頭は家人風を振り回して活発な動きをする。三世四代中澤三郎基員の頃には口丹波の同族とも連動し、六波羅の指図でしばしば最寄り丹波国内の治安活動に用いられるようになる。この動きは結局領主側を圧迫することであり、東寺側は嫌々であろうが、庄園の支配を地頭側に委ねて、庄年貢を地頭に請け負わせる事となる。地頭の領主化(地主化)の第一歩である。
 ところが、地頭側ではとかくこの請負年貢を滞納させてしまう。寺側ではこれに困り果て、他国でも行われていたように、寺の庄園領を分割して持つこととし、相互不干渉とする、所謂中分を計る事となる。地頭はここで寺側を池尻村の内の一印谷、加茂茎、西田井村の一円地に押し込め、残り分を完全な自分の領地とする事となる。これが地頭の領主化の本段階で、地頭入部以降約70余年後の事である。口丹波中澤氏もこれより稍々遅れて中分をすませている。
中分前寺領約60町、地頭はこの半分の30町中、従来の滞納年貢弁済分として5町を差引き、25町を自己領としたが、地頭側は中分前の請負支配中の土地作人地主との直接接触の温もりを寺領内に残していた訳で、地頭側は余勢を以って大山全地域内へ土地所有を広げて行く事となる。
足利高氏が北条氏に見切りをつけ、隠岐の天皇を迎えるべく、京都を出て口丹の篠村で挙兵した時、源氏の縁りで、久下、中澤等の他、多数の呼応があり、これ以来国内に南北朝の派別が出来る事となった。郡内の金石文字は北朝年号が専らだと言われている。
 併し、高氏が北朝を立ててから、南朝政権の手で地頭整理が行われ、東寺大山庄外の地頭職は寺側に付けられる事となったが、それは現実の地頭の処分方を欠いた故か実現せず、暫く鳴りを潜めたままで、旧に復したようである。地頭側はこの圧制に反発した様に、建武2年(1335)には、中澤三郎入道は他の領主達と計って時の守護碓井を放逐し、別の守護、仁木に取り替えている。(太平記)
地頭は土地と人に直に接する事により、領主化する事が早かったが、広がりには限度があった。之に反して守護は治安が本務で領主化が遅れたが、やがて土地支配と共に直に接する地頭領主を捉え、広域領主化を進めるのであった。地頭はこの大勢に従って、次第に守護の直接支配下に立つようになる。殊に山名が守護になってからは、小林代官をおき、半済をかける様になり、多数の小領主を被官化してしまう。就中、麻宇田などは大山庄で有力になって中澤に迫っていたと言う。(岡光夫氏)
中澤一族の田中が寺側と西田井の土地問題をおこした時、守護山名は不干渉の態度をとっていた。この後山名氏のお家騒動で丹波勢が丹波山名について京に攻めのぼった時、久下、中澤は手兵だけで京側に転じ、この時に畑城に拠った山名の宮田左馬助を荻野等と討っている事が明徳記他に在るが、東寺文書にはこの記述はない。この年来久下、中澤氏では所領状を揃えており、この動乱と、多少の関連を想わせる。明徳初年の文書では、中澤田中、岸二郎入道、中澤左衛門尉信明等の名前を見ることが出来る。信明の所領状によると、関東に二箇所旧領中澤郷所在の物の他を挙げ、讃岐国多配郡内のもの、遊楽庄等もあり、大山庄内にも同姓のあることが察せられ、翌年守護が細川に替わってからも名が継がれている。
さてこの頃の中澤氏の本拠は大山のいずれにあったろうか。地頭の居所についての伝承等全く無く、地名等の考察の外は無いのであるが、当初の地頭の居所は、近世に中澤を称し、文書を所持する一家(徳永中澤家)の他村(町之田)への飛び地、字殿垣内と称する小地区であると思われる。町之田村池尻谷の南口、現在池尻社を祀る小丘と大山川の支流、菜師川との間に挟まれた田畑で、東寺領初期の大山里に南接し、明治まで数戸の作人が居住し、その一隅に八幡宮があった。(この社は、宝暦時に地主中澤氏の請により、池尻社の末社として丘上に移している)池尻谷に谷奥にくもんど(公文所)と称する山谷があり、又、作り谷(佃)と言う美田あり、正谷(正作田)と言う支谷がある。丘の北麓に土井の上と称する地字があるが、土語で堤状地形をどい(土井)と概称しているので、どい(土井)は他にもあり、これを一概に居宅地とも判じ難い。これらを総合して、これを最初の地頭居所とするのであるが、ここと極めて近く、長安寺の寺址の一隅を、亦一族の居所であろうと推定する。
地字やしきの上、堀があること、寺の鎮守と伝える八幡宮があること、この寺が出屋城主中澤家の菩提寺と伝え、寺領を供していた事、七堂伽藍の大寺であったと伝承すること等を彼此併せ考え、長安寺はもと中澤氏の庵寺、持仏堂に類するものから起こったものと考えられる。東寺文書永享13年(1441)のものによると、丹波国長安寺造営の反銭*注1が停止せられていて、地頭寺を超えた伽藍の大きさを肯定させられ、八幡宮によって中澤氏との関連を察するのである。尚、天正大山落城後、梵鐘は守護寺の郡東太寧寺に納めたとの伝承がある。(大山記)
而し東寺文書は至徳3年(1386)、長安寺納所は寺領内に一反歩を登記しておるので、中澤氏がここから出屋(出谷)したのは或は応安、康暦の山名守護進出のころでもあろうか。中澤一族田中が西田井で東寺との問題を起こしてもめていた頃であり、西に隣接する下村は既に同族の占めていたところであったかもしれぬ。 土居の内の屋敷は既に鎌倉期から行われ、中澤氏も適々出合の自然の堀の内の邸地を発見したのであろうか。とすれば明徳の出陣も、又、その後の出動もここから行われた事となる。そして以後大山地域では出屋を凌ぐ実力者はなく、又、城主の交替は明智代まで行われた事が無いこととなる。
東寺文書に於いては室町1400年代初めの応永末頃から殆ど後期文明迄、中澤支族田中のほか顔を出さないのは、寺側との交渉が無かったのか。併し、応仁の乱には応仁2年(1468)9月2日、勝元方の守護代内藤弾正と共に、久下、中澤、荻野、足立、芦田等で嵯峨野辺を焼き払ったが、7日には逆襲を受けて大枝山に退いたと応仁記には書かれている。
 そして、文明の初めに表れる宗家の主らしい中澤元基は一族をして多紀郡東大芋社関連の百姓おさえに呼ばれたり、又、元の宮田庄から離れた、葛川明王院領栗柄庄の代官を承けているのであった。(大芋社土佐文書及び明王院文書)
後に郡内八上高城山に居した戦国大名波多野氏の急激な勃興は史家も追跡出来ない謎とされる。そしてその表面に出て来る初めての動きが、波多野の大山庄襲撃であった。永正5年(1508)6月、波多野は高国を背景にして宮田庄で戦闘を起こしているが、その詳しい状況は不明である。恐らくはそれに関連するものと察せられるが、7月、波多野は大山庄代官中澤元綱に大山庄の明け渡しを迫り、これを実力で拒んだ元綱は計らずも戦死してしまった。而し、波多野はこの代官職を取らず、新任の進藤信濃入道は名許りで、東寺大山庄はここに衰滅してしまう。 しかし、この波多野の襲撃は中澤を対手にしたものではなかった為か、この4年後、城主父子貞基、家基は高蔵寺へ土地を寄進してその状を留めており、又、永正16年(1519)には新三郎賢基が下知状を出して、今田の和田寺に残し、その書判は南矢代酒井家の帳にのこっている。この頃は永正以来波多野の前半活動時期であって、まだ併行の時期であった。中澤氏はこの頃大山庄を一円化し、又、宮田庄方面に点在の土地を占め、又、味間方面にも砦屋敷を広げていたものと思われる。
永正の頃急に膨張して八上に構えた、波多野八上に、奇怪な事件が起こっていた。それは、今日も尚半信半疑とされながら、現実の証拠を如何ともし難いのであるが、八上が京都より再三、三好に攻められ、遂に十年にわたって八上城を開けていたと言うことである。この開城の証拠として、いま篠山西町妙福寺にある本尊が、かって八上にあった当時の三好の家来で、この間八上の城代であった松永孫九郎が祀ったという刻文があると言う事と、他の一つは奇しくも中澤氏に関係があって、城代松永蓬雲軒(孫九郎)が、中澤治部大夫に宛てて、宮田庄久下左近に帰国の後に土地の斡旋を勧めた永禄年のもので、実に大山落城前18年のものである。(宮田久下文書、丹波志所収)
時期は不明であるが、波多野後半の盛期であろうか、大山城主は、籾井家日記によれば、八上七頭七組の城主の内、七頭の一に数えられている。但し小山城主長澤治部大輔義遠と言うのである。小山と言うのは園部にもあるが、園部には荒木氏が居しておったので、不当。味間の小山に城砦はなく、大山をとる外はない。
 公式書状に中澤と言われておるのにも拘らず、一般に長澤と言われた事は、中世末、近世以前からの事であるらしい。それは既に「城主を探る」で究明しておいたから、今更ここに重ねる事は無いが、要は口丹波中澤には中世末に分家長澤があったが、義経伝説に織り込んで、逆に長澤を嫡系とする事が流布せられ、一般には両者を混同して無頓着に、又、発音しやすい長澤をとっていたのが、郡内に流布したと言う事である。義遠は口丹波では義当もあるが、全くの作文で、地元の中澤孫十郎(治部大夫)義遠を正しいとする外は無い。
大山川流域の盆地、袋地を画して発展した東寺大山庄の庄域の基礎条件のもとに、地頭中澤は鎌倉期には地頭領主として、一族連動して丹波国内的の活動をするのだが、一時地頭制圧の危機を迎えながら、漸次守護傘下への接近によって領主化を進め、関東以来の同勢久下氏等と提携し、一つは袋地の地勢が幸いし、又一つは、天然の良砦に助けられ、一二の危機に臨みながら、これを越え、戦国期天下統一の機運の前には、八上波多野の傘下に属し、旧大山庄を一円化しながら、味間の一部に城砦を持ち、又、宮田庄方面にも若干の土地を所持し乍ら、宮田山名、古市酒井氏と、その間の諸名主達に伍して、大山城主の顔を張っていたものであろう。口丹波同族との間柄は、既に明徳期、守護細川氏の頃より稍疎遠になっていた。
波多野氏発展の端緒はやはり強引な実力で、辻、平野、南端(難波)等に代わって八上郡代に就いたことであろう。郡内を激しく叩いた事は、多く伝えられていない。守護家細川高国に巧みに去就し国外京摂にも進出して一躍して領勢を盛り立てて、東部中国の領国を形成し、丹波、但馬、摂津の一部、40余城、30余砦を押さえていた。(明徳記) 
しかし、動きかけた天下は、波多野が将軍を立てる程の野心もなく、朝倉、浅井、毛利と結ぶ事が精一杯の謀略で、日夜兵馬の手当に追われ、内政の細部にまで配慮する暇は無かったに相違ない。

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