落城主の墓所及び戒名に就いては、家記本篇上228頁に委細を記しているが、一連の徳永文書中の矛盾は次の如く解釈すべきであるまいか。
柴太夫家では最も大切な近い祖先は、豊後之介宗全居士の義父帯刀の筈であり、延宝5年(1667)百回忌に桂谷長楽寺に祀ったのは、実は城主ではなく、帯刀の「紅雲院殿一天宗信大居士」ではなかったか。 それを柴太夫の子、文右衛門は大山記では城主を「一天窓梅大居士」、場所桂谷長蓮寺とし、更にその子□右衛門は場所桂谷口浄墓山(俗に長澤山)に城主墓として、下村村人と協議 の上に建碑した。当初帯刀を祀ったのは下小倉の帯刀内室(上山氏)であった 筈で、そこでの戒名は今では「窓梅」となっているが、これは宗信であったのが、宗信帯刀を城主に誤ったように、「窓梅」に変わってしまったのではあるまいか。城主の戒名は初めに祀るとすれば、徳永中澤家をおいてない筈であるが、それが無かったところを、柴太夫が帯刀を祀ったのが、城主の如くなり、宗信から、窓梅に変わってしまった。何故百年忌まで城主墓が放置せられたか? 徳永中澤家で構わなかったのか? 城主の本来の墓地は北野常楽寺祉の上に相違無いのに、何故川むこうに城主碑を建てたか?
−注− 「北野初太夫坪( )、“大山石造遺物” 拙稿を見られたい」
これは徳永で氏素性を公的に隠す必要が有ったか、或は世間的に北野墓に触れ る事がはばかられたか、いづれかであって、現に北野から川向上り、移碑説まで生まれている訳で有るが、本来百年間に事情の如何に拘らず、徳永以外から 建碑が行われたとは考えられず、適々帯刀を祀った事が両者の混同を来し、帯刀と城主が混同せられ、帯刀は城主となったが、実名(宗信)を失い、城主は 帯刀の戒名の擬名で祀られる事になった。そしてここに墓所の場所について、初め柴太夫は帯刀を祀るのに北野墓にする事は出来ず、桂谷を選んだが、それにはもう一つ、川向が味間としばしば山論の場所になり、それの一方便として城主墓を川向とする事を計ったのかもしれなかったと言う事である。
北野墓はいまこの寺男の系と伝えられる家の所有となっているが、この家は長澤を称し、城主の首は味間中の某所に在ると聞き、又、系図は口丹波長澤氏に渡ったとの家伝を伝えている由である。この伝承にも何やら墓所の経緯の一端が匂わされている感がある。
尚序だが、柏原小南中澤家(当主は毅雄氏)は、氷上丹波志では浪人した城主の系と称せられ、又、多紀丹波志は安永の頃、黒井で城主が伊勢に流浪した伝承のある事を捉えている。
本稿は本来明智の来攻迄を多少詳しくするのが本意であったがのが、随分と冗長してしまった。重複でもあるが、観る人あらば家記本篇「城主を探る」を参照せられたい。
昭和55年8月31日