(4) 母 衣 の 功 名

大山の攻防戦についてはやっと百年後の大山記があるだけである。これがどれ程迄に史実に正しいかどうかは疑わしいが、他のものをも併せて見たところを上せてみる。
城主時に29才(27才とも)、妻と2男児、6才と4才は家来斎藤伊与が追入に連れて逃げたと言う。(安永丹波志) 弟に源吾、与吉郎、伯父出雲守があった。家中には谷垣、淵田、雪岡、金具、玉置(九兵衛家 下書)向井左近(大山記)があった。大山谷中には一族の空心、豊後之助、帯刀左衛門(太郎)の他、三助(九兵衛家 下書)、斎藤、古河、等の有力名主(武士地主)が居て、家来を連れて馳せ参じたであろうが、長安寺、高蔵寺、大乗寺の僧徒も加わったと言われている。せいぜい50人許りであったのではあるまいか。味間の支城(貞享記)は大山に加わったと思われる。因に下村九兵衛家は家来谷垣の女の腹に残った庶子、新(又)三郎の後だと伝えて、今は、長沢株となっており、谷垣という地字もある。真偽は別として家来谷垣の後は土地に残ったということである。
前日山名の小坂の城が討たれ、翌9月15日、絶対絶命の敵の来襲となった。城方は、木ノ部口、大滝口、に構えたが、攻め方は秋暁の朝露を踏んで遠見坂から無造作に殺到し、川の対岸から火矢を仕掛けて来るのであった。これを土地の古老は紙の大砲だと伝えている。城外戦の余裕はなく、忽ち茅屋根に火の手が上がり、川から本門に迫って一番乗りを名乗ったのは、津田七兵衛信澄の家来で、20余才の藤堂与吉高虎であった。寄せ手は実に明智の総軍で惟任日向守光秀の他、津田七兵衛、滝川左近、細川藤孝、忠興の同勢であり、この中には大山周辺にある高山の田中のごとく(船井郡大村田中氏、氷上郡柿○出身)降参者の従軍したものあり、隣庄矢代の酒井も加わっていた。衆寡敵せず、奮戦の末、向井左近の介錯を受け、城主中澤孫十郎伯耆守重基は自殺、城宇は灰燼に帰した。時に午前十時前後、この時諸寺も焼かれたと言うが、別途の派兵によるものであろう。名主の家を探って叩く迄ではなかった。
この時に攻城に参加した酒井主水は、城外で城主の弟源吾の追撃を受け、源吾は討ち死にしたが、その時の傷が因で主水は死亡したと伝えられている。源吾については後日談が無いので、この話は確かであろうが月日は或いは他日の事であるかもしれない。
大山記では寄せ手を、津田七兵衛、筒井順慶等と謬っているが、上記の組合せは信長がいつも光秀につけた総勢である。細川軍も父子揃いの上、家の三老臣、松井、有吉、米田も加わり、又、馬場弥三郎は首を取ったと家記に挙げている。 
この三家は後に細川家が熊本城に上った時、小大名に取り立てられて、夫々の家譜に先祖の大山参戦を載せている。
この大山戦で高虎の功名は先登して勇名を馳せ、籾井攻めでは首2つを取っており、信澄は高虎を愛し、帰陣後家臣に議して高虎に母衣を許したと言うのであるが、高虎はこれを不服として信澄を去って、羽柴秀長に替わったと言うのが後々の噂話となったのか、近世に地元で戦記物語に仕立てたものがある。(丹波興敗略記)
高虎は当世7人の主替えをする覚悟がなければならぬと自分で吹聴したと言うが、生涯巧みに替り身して、徳川治世下では、伊勢国津藩として繁栄した家をなしたが、その公式家譜によると、13才で罪人を斬り、15才姉川戦で首を取って以来主を変えて4人目に信澄に仕え、丹波大山で功名したと言う。信澄は或いはその時の仮主であったかも知れぬ。羽柴秀長に替わったのは2年後の事であるが戦功有り、秀長死去の後、子秀俊を助け、朝鮮征伐にも参加したが、秀俊死亡後は高野山に登ったと言う。後、秀吉に召され大名に加えられたが、石田三成の頃より家康に近づいて、今治20万石にあげられた。
膳所、伏見、江戸、諸城の縄張りをして、その才を認められ、大坂がまだ健在であった慶長14年、奇しくも山陰道押えの天下普請の為、家康の直命を受け丹波篠山新城の縄張りに当たる事となった。 後年ついには累進して伊勢国津城32万石の主となった。弘治2年近江国犬上郡藤堂に生まれ、没年は寛永7年、75才であった。
追入に逃げた家族は明智方の西(才)蔵坊にわたされ、後に放たれて氷上郡に去ったと言うが詳細に伝えるところは無い。三男与吉郎(与三郎)は乳母に伴われ氷上郡中竹田に落ちて、中澤を称している。(下村に与吉郎の後を言う者があるが、遥かに後年、弘化頃に長澤を称している。)
一族帯刀とその弟は討死にし、帯刀の後はその妻の実家、上山氏の小倉に落ち、その二子は戦傷とも伝えられている。家士谷垣の後は残ったが、その他名主、家士等の消息については多く伝えられていない。
名主の後としては、一族中澤豊後之介は元に復り、名主 斎藤、雪岡の族は残り、古河は氷上郡芦田に落ちている。戦闘についての惨禍といった言伝えは何も残っていない。
城主は城より退いたとの伝承の二件が氷上郡に丹波志によって伝えられているが、これは、攻め手の細川家記迄が城主は自殺としておるのだから、憶説とする他はない。そのほかに城主の首は味間の某所にあるとするものがあるが、これは恐らく墓所の何らかのいきさつに関連する、事更の言い触らしかと察せられる。

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