(3) 明 智 攻 め

信長が足利将軍を奉じて上洛した時、初めから将軍を追うつもりであったかどうか、天下統一の志はいつ頃に始まったのか、又どんな統一を考えていたのか。信長が将軍足利義昭に頼られて上洛したのは永禄11年(1568)初秋(9月21日入洛)の事である。
そして愈々信長が明智光秀、細川藤孝に丹波攻略を命じたのは7年後の天正3年(1575)の九月であった。丹波では波多野攻めとも、または信長攻めとも言わないで明智攻めと言う。攻められ乍ら信長に忠誠を尽くしたいが、明智は敵だとする、思考倒錯もある位である。
明智の丹波攻めには地元では有名な籾井家日記の外、2.3のものがあるが籾井家日記は編者野々口政太郎氏の名解説に拘らず、これからの史実の採取は学者もお手上げのようである。当然光秀の全行動からとらねばならないので、ここでは高柳本(人物叢書)、桑田本によることにした。徳富近世日本国民史も参謀本部本を見たとの事でこれも考えて見た。高柳本では信長記と太閤記の噛み合わせが注目せられる。
信長は入洛してから朝倉、浅井を滅ぼし、三好、本願寺を攻略したが、武田と長篠戦を戦い、美濃、大和などの処理もあった。光秀は初め将軍義昭の内にも出入りし、信長家来として主に内務に従ったが、丹波攻めの命の以前に惟任日向守を貰い、専ら軍務に服する事となる。光秀は信長直臣の右翼にいて、既に元亀元年(1570)には近江阪本城を受けていた。そしてこの丹波攻めの受命の頃(天正3年6月)には、既に丹波への工作を始め、信長朱印を小畠に出しているし、翌7月には小畠左馬助、中澤又五郎、西(才)蔵坊に光秀より用材手当の請求状を出している。而も八月には信長に従い越前門徒を打ち、又、加賀に入っている。而かし信長の丹波工作はこれより早く、2年前の天正元年夏、浅井の滅ぶ前に既に但馬半国が秀吉に通じていた。
明智の丹波攻めは天正3年に始まって延々足掛け5年、天正7年までの長期に渉るのであるが、その長期化の理由の一つは、当時の攻防はつとめて実戦を避けて調整謀略を事とする事であったからであろうし、これは亦光秀の性格的なものであった事、次には信長の人使いの荒さによるのではあるまいか。そして自然は掃蕩戦は行われなかったという事であろう。ここで光秀の攻略の大概をあげる事とする。
信長が丹波案内をさせようとしたのは小畠だけであったかどうか、よく分らない。小畠については船井庄論文(竹内秀雄 国史学)にあるが、これだけではよく分からない。
文明18年(1486)守護細川政元、長享3年(1489)穴イ村(穴太村)に小畠弾正、小畠小太郎あり。 長享2年(1488)細川被官小畠七郎左衛門尉孫五郎、庄年貢押領。延徳元年(1489)庄側より小畠孫五郎を代官職に。
天正3年、光秀は但馬にも工作を行っていたが、但馬の山名政豊が、丹波氷上郡黒井の赤井に攻められて、信長に救いを乞うた事により、信長の命をうけ、11月光秀も愈々丹波の実戦に出立する事となる。予ての工作の効あって、丹波の国衆殆ど光秀の黒井攻めに参加し、大勢を組んで黒井を包囲中、国勢に秘かに反転の気勢あるに気付き、光秀はかろうじて大路、栗柄、須知の間道を経て頓走せざるを得ず、緒戦に一敗を喫する事になった。八上勢はこれを丹波の誘い込み戦として、後々の自慢の語り草とした。これは天正4年初頭にかけての事であるが、籾井家日記ではこれを早く秋季の事とし、或は大山の金山戦に連ねて語られているものもある。この時光秀逃走行の殿軍となって主君を助けた堀部兵太の為に、栗柄鼓峠に遺跡が作られた事が大山記にあるが、今は伝承も共に消えている。
天正4年1月、信長は安土の経営を始めたが、その内にも2月光秀は丹波桑田郡に入って亀山を押さえた。丹波、丹後の守護一色は既に丹後に退き、守護代内藤も八上に押さえられて、この時退去した。4.5月再度信長勢は大坂石山本願寺を攻め、光秀も参戦。6月になって光秀発病、京都で療養し信長の見舞いを受ける。光秀の妻の家、吉田家に祈祷を頼み、7月にはようやく平癒したが、この年は11月に入って光秀の妻が病む事となった。この間八上勢は反発に出て、又、諸工作も行われたに違いない。そして国内はこの低気圧下にあって国侍層を波立たせていた事であろう。
天正5年、信長は安土で采配を振るっていたが自らも出動した。2月より紀州雑賀攻めにかかり、次いで北国押えがあったし、松永の反抗があった。又、秀吉は中国攻めを始めていた。光秀は近畿戦に参加して丹波に出る隙がなかったが、10月末ようやく坂本を出て丹波に入り、諸砦の中を突入して、多紀郡東福住の籾井城を叩いたが、八上には迫り得なかった。
この年、口丹波の諸城を点攻し、ようやく亀山をも固めたが、著しい戦果は収め得なかった。一方秀吉の中国攻めは、播磨、但馬に入り、丹波攻めとの関連が問題となる事となり、光秀の焦慮を増す事となった。
天正6年3月丹波に一揆蜂起との情報があり、信長自らが進発せんとしたのでこれをとどめ、光秀が進発、信長はこれに一益、長秀、藤孝の軍を付した。
3月15日、八上を直ちに陥しがたい事を知り、長囲の策に出で、明智治左衛門をおいて一旦坂本に帰ったが、4月には信長と総勢で大坂に出陣するのであった。この後、光秀、一益、長秀、相連ねて丹波に入り、荒木氏綱を園部に攻め、水の手を切って降参させ、又、播磨戦応援の為坂本に帰る。そしてこの慌ただしさの内に、信長の命で藤孝の子、忠興(16才)に光秀の女(玉16才)を嫁せしめる。この女子が後のガラシア夫人である。
光秀はややこしい播磨戦をはなれ、9月本務の丹波攻めに帰り、小山城(長澤治部大輔義遠)高山(大館左近将監)馬堀(雅楽助)の諸城を陥す。光秀はこの時坂本にいたが、使者を出して吉田兼見卿に茶碗を所望し、その時(13日)丹波へ発向の予定である事を告げておるから、大山攻略は15日以後の事と察っせられる。坂本に帰投した光秀は、すぐさま茨木、高槻、伊丹、三木等に転戦するが、年末近く、又丹波へ追い返されている。
天正7年 光秀は大山落城後、直ちに大山の金山にある3つの峠に屯所を設けて、八上高城を遠望すると共に、両郡を遮断したが、この年2月には多紀郡以東の諸城を験討すると共に、氷上郡に主力をそそぎ、5月19日には久下の玉巻城と波多野一族の氷上城を陥す。反転して多紀郡に返って籾井を落し、八上高城に迫る。5月の末である。城兵は守りに疲れて、内訌を起こし、遂に開城のやむなき至り、6月2日波多野秀治等の降を入れて安土に送る。
続いて7月 桑田郡宇津を陥し、又氷上黒井を下し、続いて福知山を陥し、藤孝と共に丹後に入り、波多野党を攻め、一色義有を降す。9月22日を以て丹波の諸城の攻略を終え、10月24日安土に帰って一切の報告を終えた。光秀時に52才。翌8年8月光秀は江州志賀郡5万石の他、丹波一円29万石の主となり、細川忠興は丹後12万石を得た。
明智攻めの要略をあげて、初めに言った明智戦の特質を捕まえたかったのだが、どうであろうか。信長がどんな理想を画いて天下統一に立ったかは、どこかで学者が究明している事と思われるが、入洛以来の挙措ではその熱望の只ならぬものを感じせしめられる。そもそも、国家社会のこんな大きな変革には、かくならざるを得ない、目に見えぬ大きな底流が、上部の黒白、左右の小さな動きに拘らず、大きく流れているのではないのか。
守護の組織を利用しつつ、且、これを踏み砕いて自らが守護に就いて京都近くから山陰の東部に団塊した波多野の勢力を自家篭中に入れる為の信長の趣向は明智を主として細川藤孝等に助勢をせしめる事であった。そして八上勢対光秀との対抗の上には、直々信長の意図が反映し、尚もその中国戦が、又丹波攻めに、殊には秀吉の動きが巴風となって光秀の丹波攻めの裏に働いたとみられよう。
そしてこの経過の内に、大山落城の場を考えて見ることが出来るのではなかろうか。緒戦以来足掛け3年後、愈々八上を篭城戦に持ち込んで長囲の策に出るまでの明智攻めは捗々しくない。而かも点取り式であったと言えよう。これは波多野のその地の小領主の押え方にもよるし、又、光秀の一流の方策の為であったとも言える。以来中国攻めの秀吉情報にもせきたてられ、爾後光秀は掃蕩戦に入ったようである。八上の篭場では郡内小領主より親疎に応じて篭城者を取っており、その時に既に高城関係の厚薄向背は知られているが、その残砦を更に念押して改め廻ったものであろう。
大山から城主の伯父が八上に入ったとも言われるが、確かには分からない。南隣の酒井では一族が別れて八上に入ったのも、又、降参を明らかにしたのもあった。宮田の山名の事はよく分からないが、大山も或は実は降参していたのではあるまいか。それは、酒井の南矢代等では中世文書等持ち越しておるのに、又、氷上の玉巻久下等もそうであるのに、大山ではにわかの退去が行われたらしく思われる事である。*注1 天正6年9月14日、山名小坂城と1日違いで急襲を受けているが、山名、中澤共に比較的堅固な城砦を備えているものである。
地元では落城を天正6年8月15日としているが、これは、前に挙げたように兼見卿日記に書かれてあって、光秀の入丹が確かであるから9月が正しく、月のよい盆の8月が後年にとられたのではあるまいか。
しかし、大山叩きは八上長囲1年有余後、大勢は既に決まった後であり、大山城が一大反撃に出て形勢を一転させたと言うのでもなく、光秀戦とすれば、たとえば丹波の一隅で起こった落滴の一粒に過ぎないのであるが、この一触に一つの戦略がないではなかった。それはまだ残って八上勢を気勢で助けていた氷上勢があって、これを郡境の大山の金山で遮る計略があったことであった。大山落城の後、突貫工事で一夜にして金山の3つの通路に屯所を築き、郡境を阻ぎ、略々大山谷の所収をあてて、三士を置いた。併し、この時の普請作事の子細は伝えるところが無い。只、三士は彼の本能寺の事変後11年、空しく去って行ったと言われている。大山の落城は氷上郡の波多野一族を八上の本家と遮断するため、金山に築城する為の念押しの一撃に過ぎなかったのであった。 翻って再び明智攻めの特質や、又、彼の反逆との関連等考えて見たいところだが、大山落城の細部をすましてからにしよう。

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