| 室町時代の近江仰木庄 |
| 少し歴史史料を調べていましたら、仰木庄について室町幕府の奉行人が奉書(幕府の命令書)を出していたことを発見しました。 近江国は山門(比叡山延暦寺)の勢力下にありましたから、山門の荘園であったことは当然ですが、史料として仰木庄を見たことがありませんでした。 室町幕府文書集成 (奉行人奉書) 思文閣出版 昭和61年 3通奉書が発行されています。 妙法院御門跡領近江国仰木庄・普門庄・南庄北方等給主知行分事、 被返付訖、如元可令全領知給由、所被仰下也、仍執達如件、 明応元年十二月二一日 前丹後守 (花押)〔松田長秀〕 大 和 守 (花押)〔飯尾元行〕 当御門跡雑掌 『一つだけ読み下しておきます』 妙法院御門跡領、近江国仰木庄・普門庄・南庄北方等給主(きゅうす)知行分の事、返付されおわんぬ。元の如くすべて領知を給うべくのよし、仰せ下されるところなり、仍(よ)って執達(しったつ)くだんのごとし 普門庄・南庄とは滋賀県大津市の堅田から途中峠へゆく間にあります伊香立付近で、道路に道しるべがあります。返付と書かれていますから、一時幕府が没収していたのを返したのです。 給主知行分とは、妙法院の中で名家出身の僧が互いに荘園を取り合いして、これは誰の分、あれは誰の分と分けていました。その中で給主という役職についた僧の取り分と考えて下さい。 雑掌(ざっしょう)とは、荘園を管理する役職の僧のことですが、時には武士が代官になったこともありました。 妙法院御門跡領近江国仰木庄給主職諸職并普門南庄事、当知行無相違之処、 混彼庄内三上又三郎跡、去年斉藤藤兵衛大夫申給奉書云々、太不可然、 所詮、於三上跡者、不彼及是非歟、至門跡跡領給主職諸職・普門南庄 以下者、任明応二年奉書旨、可彼全所務之由、所彼仰下也、仍執達如件 明応八年八月一五日 前丹後守 (花押)〔松田長秀〕 豊 後 守 (花押)〔松田頼亮〕 当御門跡雑掌 妙法院御門跡雑掌申仰木庄給主職諸職并普門南庄等事、門跡当知行無相違之処、 混彼庄内三上又三郎跡、去年斉藤兵衛大夫給奉書云々、太不可然、 所詮、於三上跡者、不彼及是非歟、至門跡跡領給主職諸職・普門南庄者、 任明応二年奉書旨、年貢諸公事以下如先々可致其沙汰由、彼仰下候也、 仍執達如件、 明応八年八月一五日 長秀 (花押)〔松田長秀〕 頼亮 (花押)〔松田頼亮〕 仰木庄名主沙汰人中 この2通は妙法院門跡領の中に一部混在していた三上又三郎が持っていた権利を斉藤兵衛大夫がが幕府から認められたとして年貢を取り立てたので訴訟が起こったことを示しています。 その判決として、斉藤はそんな権利をもらっていないから、元通り妙法院が年貢や公事を取り立てる権利を認めたもので、3通目はそれを百姓の代表者である名主(みょうしゅ)に元通り妙法院に年貢を払うよう命じたものです。三上氏の権利については論外だとしてそれ以上触れていません。三上氏は武家の争いの負け組みになって、権利を奪われたのでしょうが、奉書が三上氏の権利を認めていないことから、元々幕府から正式に権利を得た者ではなかったのでしょう。 斉藤氏は鎌倉幕府時代から続く幕府の超名門奉行人一族です。 仰木から伊香立(南庄がそうです)にかけて、丁度1000年ほど前は源融の荘園であったようですが、その後山門に寄進されたのでしょうね。 源氏物語でも 光源氏の子の夕霧がが横川の上人に深く帰依していたことが書かれていますので、寄進は事実であったことの証になるかもしれません。 |