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丹波大山庄などという誠にマイナーな歴史を研究していますが、べつに取り立ててこうだという気持ちがあって勉強しているのではありません。
たまたま、私の家に家系図なるものが存在しており、その中に遠祖が丹波大山城主であったという記述があったので、昭和48年の春に姉や妹達と遊びがてらに丹波までドライブとしゃれこんだのがそものそのきかっけです。
明治の初めに祖祖父が丹波の一族を訪ねた時に、当時の大山村町之田の中澤氏と手紙のやりとりをしたものが残っていました事と、昭和14年に大叔父Kと叔父達が丹波を尋ねたことがあり、その時に丹波の中澤栄一氏からきた手紙が一通残っていましたので、それだけを頼りに暖かい春の日を受けながら丹波路を目指しました。
まるでピクニックに行くような気持ちで丹波路を目指し、亀岡から園部、天引峠を経て丹波国多紀郡に入りました。篠山城を眺めながら目的地の大山についたものの、これといって訪ねる先もございませんでしたので、とりあえず地図にあった寺院を訪ねることに致しました。最初にお尋ねしたお寺で事情を話しますと、「栄一さんなら帰っておられるよ」と教えて頂けたので、ご自宅を教えて頂いて直接お訪ね致しました。
若造が4人突然訪問してきたので、栄一氏は随分ビックリされただろうと思いますが、Kが私達の大叔父になること等を詳しく申し上げましたらとても喜んで頂き、早速座敷へ招き入れて頂きました。
私達は全く何も知らなかったのですが、昭和30年に大山村が合併して丹南町となる時に、大山財産区の資金を使って大山村史を編纂することになり、栄一氏がその世話役をされていたのでした。
そんなことがきっかけとなり、大山庄について郷土史家であられました中澤栄一氏よりご教示を頂くこととなったのが、私が歴史への興味をもったきっかけです。
後日栄一氏のご尽力により、大山村の村民と一部の学者しかもっていない大山村史を本編、資料編共に入手して下さり、私にプレゼントして下さいました。この本はいまでも荘園史を研究される方にとっては喉から手が出るほど貴重な文献であり、めったに古書店にも出ないもののようです。以前東京の古書店に出ていた時は、ビックリするような金額がついていました。
大山村史を何度も読みかえし、大学の図書館で大山庄関連の文献を読み続けてきたことによって、中世丹波の事情にも通じることが出来ましたし、パソコン通信の歴史フォーラムを通じて多くの方々からご教示を得ました。
最近ではインターネットを使って文献を探すことが簡単になりました。歴史を勉強されている方の掲示板を利用させて貰うこともしています。
私にとって大山庄の勉強とは、必然的に家系の勉強をすることでもありました。
この間に世間では「ルーツ」という映画が大ヒットしたこともあって、家系を勉強される方も増え、家系図を作って販売する業者まで出てきているようですが、栄一氏の遺伝を言うなれば、「家系を知ることには何の意味もない、それが現在の私達にとって何の意味があるのか」だと思います。
すべての生き物には親があり、そのまた親があります。親たちの名前が解ったところで、現在の私達が変わるわけではありません。与えられた人生を普通に生きて行くことが大切なのであって、遠祖を知ることは単にその時代や生活環境を知るだけのことでしかありません。それは現在の私にとって単なる歴史であり、他の荘園史や戦国史の勉強をしてゆくのと何ら変わりは無いことなのです。
このページは天正の落城をもって歴史としての大山地頭中澤氏の記述は終わっています。落城後の一族についてはかなり詳細に解っていますが、それは私にとって個人のプライバシーに関することであり、研究として発表するべきものではないと考えますで、ご理解頂けますようお願い申しあげます。
どの時代から個人情報として保護を要するかについては、研究者それぞれの考えがあり、明治維新を一つの区切りとする方や、100年を区切りとするかたもおられます。それについて意見を申し述べるつもりは全くありません。みなさんの考え方を尊重しております。
ただ、家系の研究は極めて個人的な情報を研究することになりますので、プライバシーの侵害にならないよう、細心の配慮が必要かと考えています。